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小さな通信 第7号 1991年8月

クリスチャン「キリスト教徒」にとって教会とは

このタイトルは今更なぜかと思われる向きもあろうかと存じますが、このことを専門的に解説するとなると、一冊の書物にもなろうかと存じます。

しかしそういったことではなしに、私はごく平凡なクリスチャンの立場から、特に入信して間もない人々や、今、道を求めている方々のために、少しでも理解していただくきっかけにともなればと思い、私なりに単純に考えを述べてみたいと思います。さて教会のことについて私どもは、よく何気ない日常の会話の中で、どこそこの教会は大変大きい教会だとか、我々の教会よりあそこの教会はたいそう豪華ですばらしいなどと言いますが、あれは教会の本質そのもののことではなくて教会堂という建物を指しているのです。そこはクリスチャン達がイエス・キリストや父なる神とともに「邂逅」する「交わりあう」場所でありまた祈りの家とも言えると思います。従って建物も大きくて素晴らしいに越したことはないのですが、これは我が国で一般に言われているお宮やお寺のようにその中に様々な神々や仏などを常時祀ってあるのとは少し異なるのです。

それではクリスチャンにとって教会とは何でしょうか。端的に申しますなら、それはキリストの体であり(エペソ人への手紙第1章23節)また使徒言行録第4章32節には「信じた人々の群れは心も思いも一つにし」とありますように、教会とは精霊によってキリスト教に堅く結ばれたクリスチャンの集合体とも言えるのではないでしょうか。教会という言葉もギリシャ語のエクレシア(信じたものの群)というのだそうです。ヨハネによる福音書第15章5節にもぶどうの木とその枝になぞらえて、キリストとクリスチャンの深い関係が記されてあります。ですから教会に属さない亜クリスチャンには真の信仰はあり得ないと言われるのです。

教会の本質をなしているものは、キリストご自身であり、そのご意志の現れでもあるのです。マタイによる福音書第16章18節には弟子達の代弁者ペテロの信仰告白に対しイエス・キリストは「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」と言われました。そのことがキリストの復活を弟子達を通してエルサレムでの初代教会の誕生となりそこにご意志が実現したわけです。それからその教会は神の恵みとご計画によりますます発展し世界中におよんだ訳です。そう考えますとキリスト教会は実に復活されたキリストの象徴的形でもありまた天国へ通じる道でもあるのです。ヨハネによる福音書第14章6節には「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と記されてあります。それ故クリスチャンは教会生活を大切にしなければならないのです。

クリスチャンとはキリストに従う者ということなのです。キリストに従うことの最も基本的なことは教会生活を重んじることなのです。また、教会生活の中で最も中心となるものは日曜日毎の聖日礼拝なのです。今回はその聖日礼拝についてごく簡単に触れておきたいと思います。

聖日礼拝にはクリスチャン一同がひとつ教会に集い神への讃美と感謝、また悔い改めを捧げます。そして牧師の説教を通してみことばから一人一人が新たな恵みと力を受け、そこから始まる一週間の歩みを強められるのです。牧師の説教は礼拝の中心をなすものであって、単に聖書の注解ではなくそのつど祈りによって示される、神の啓示を全体に知らされることなのですから、一同は謙虚に傾聴すべきなのです。ですからこうした礼拝には特別な場合のほかは、万難を排して出席すべきだといわれるのです。そのことがキリストや父なる神を喜ばせることであって、礼拝者の少ないことはキリストを悲しませることになろうと思います。

エペソ人への手紙第5章10節には「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」一人一人の信仰生活もこの礼拝から成長せしめられていくことなのです。このようにして礼拝は共々に神の恵みを豊かに受けるまであるのですから、求道の方々も、また、クリスチャンも再認識して礼拝を大切に守っていきたいものです。

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