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小さな通信 第5号 1990年4月

イースター

みどりがまして、風が爽やかに感じられるようになると、キリスト教徒にとってはクリスマスにならぶ、祝いのときイースターの季節になる。私たちの住んでいる日本ではクリスマスの比べるととても静かである。しかしキリスト教徒にとってイースター「復活節」は大切な祭りの日であって、今から2000年前にイスラエルの地を治めていたローマの総督ピラトによって十字架刑に処せられ、死んで、岩穴の墓に葬られ、三日目に蘇られた、イエス・キリストの復活を喜び祝うのである。この「信仰」イエス・キリストのよみがえりという出来事はキリスト教信仰の基本の一つであり、このことがなければキリスト教は成り立たないのである。またこのことがしんじられなければきりすときょうしんこうはないのもどうぜんである、といわれている。しかし私たち日本人にとってこの「よみがえり」はなかなかに信じがたい出来事である。遠い祖先から受け継ぎ(仏教、神道、儒教、等、等、によって)身に付いている「死生観」によってはとても理解できないことである。それこそ神様に助けてでももらわなければわからないことであろう。これが日本のイースターの静かな理由の大き な原因の一つではなかろうかと密かに思っているわけであって、ともあれこの爽やかな季節に、自分のもつ「いのち」のこと、その行く末を、私たちは何に託して生きているのだろうかと、思いめぐらすのもいいのではないかと考えている。

◆「新しい革袋」 礼拝説教要旨 1989年3月5日

マルコによる福音書 第2章18節〜22節   (C)日本聖書協会
 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるべきである」という有名な言葉があります。
これは、実は、イエス様がある時、ある場所で語った言葉なのです。そのある時、ある場所とは、今から二千年前、ガリラヤ湖畔のある村で、イエス様が弟子たちや取税人や罪人たちと楽しく食事をしていたときのことでした。イエス様は、神の国とは盛大な晩餐会のようなものだとおっしゃった方ですから、この時も神の国は、こんなふうに一人一人が本来の自分を回復できる喜ばしいものであるとおっしゃっていたのかもしれません。とまれ取税人や罪人たちにとっては、今まで律法と呼ばれている法律で「罪人」の烙印を押されていたのに、人間らしい扱いを受けて大変、喜ばしい会食であったに違いありません。

さてそこへ「あなたの弟子は断食しないのですか」と尋ねた人があったとマルコ福音書は語っています。この人にとっては、イエス様の振る舞いが不思議でした。神の国に入るのには、断食などの業が必要なのにどうして食事などを、しかも罪人たちと一緒にしているのだろう、と思ったらしいのです。この人々にとって神の国は人が業を積んで入る所でした。ですから業を行う者こそが、「あるべき姿」であり、「理想の自分」と見えたのです。

私どももよく似た経験をするのではないでしょうか。まず自分の側に「あるべき自分の姿」を用意しておき、それを実現すべく努力したり、神様を信じればそれが実現されるはずだと考えたりいたします。

しかし神の国は、元々、業を積み努力精進することによって到達するものではないのです。私ども人間が知ると知らざるとに拘わらず、イエス様の側が十字架にかかることによって私どもに用意して下さっているものなのです。それらによって「本来の自分」というものを差し出して下さっているのです。ですから私どもには、真の自分をいただくためにイエス様へ向きを変え、神の国の一員となることが求められているのです。イエス様は、「新しいぶどう酒」という名の真の自分を注ぎ込んで下さいます。「新しい革袋」という名の砕かれた心を用意しようではありませんか。
説教者:小野寺泉牧師

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