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小さな通信 第4号 1990年3月

映画に観た聖書の世界

ご記憶の方も多いと思いますが、映画「エレファントマン」の中で、知恵遅れで感情を持たないと思われていた主人公が、突然、「詩編第23編」を暗唱するという感動的な場面がありました。

主はわたしの牧者であって、
わたしは乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。

で始まる一編です。苛酷で絶望的な人生にあって彼を支えていたのは聖書だったのです。そのことがきっかけとなって彼が高い知性の持ち主であることがわかり一躍話題の人となるというストーリーだったと思います。その後だったと思いますが、東京西教会の高砂先生、北陸学院のディター先生による23編のお説教を続けてお聞きする機会もあって、以来「詩編第23編」は私にとってもっとも印象深い箇所となりました。

映画好きの私は中学生の頃から聖書やキリスト教に題材を撮った映画もずいぶん観ました。単純と笑われるかもしれませんが、それらが25歳の時に最初の子を生後5日目で亡くし、自らも大病を患って以来、私をキリスト教に目を向けさせることにかなりの影響を与えたのではと思っております。今、思い出すままに挙げますと、「天地創造」「ソドムとゴモラ」「サムソンとデリラ」「十戒
」「キングダビデ」「ソロモンとシバの女王」「偉大な生涯の物語」「ベン・ハー」「「クォ・バディス」「コンスタンチン大帝」等で、映画からかなりの知識を得たのは確実です。特にベン・ハーは昨年4回目でしたが聖書研究会で牧師のお話をお聞きしていたおかげで自分なりに新しい発見をしました。奴隷船に引かれていくベン・ハーにイエス様が水を与えるシーンを見てイエス様は奴隷をはじめとする「地の民」を救うことを考え、彼らに限りない愛を注がれたのだと思います。聖書を理解するには当時の時代背景をもよく知ることが大切だと改めて気づかされました。
(秋山)

◆「神の食卓への招き」 礼拝説教要旨 1989年2月26日

マルコによる福音書 第2章13節〜17節   (C)日本聖書協会
 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
イエス様の説教の仕方は、一風変わっております。説教といえば会堂の中でするものと相場が決まっていた時代に、いわば辻説法をなさったからです。湖畔や野原や小高い丘でイエス様は神の国を宣べ伝えたのです。

どうして辻説法することになったのか。それは会堂へ来る者にも来れない者にも神の国への招きを知らせたかったからに他なりません。要するに、誰でも招くためです。そしてこの「誰でも」の中に、私ども一人一人が例外なく含まれています。もちろん私どもは遠慮したり、「敷居が高い」と思ったりします。しかしそれは私どもの側の思いであり、判断です。神様のではないのです。神というお方は、イエス様において、私ども一人一人を例外なく招いておられるのです。本日のマルコ福音書2章13節以下は、そのような神の招きをアルパヨの子レヴィに託して語っています。

神の招きは、第一にアルパヨの子レヴィに対してなされましたが、それは誰でもない「あなた」という個人に向けられています。「あなたは、神にとって必要な失われてはならない存在である」とイエスによって招かれています。この時、人は初めて自分の人生の中に「座っている」ことを止め、立ち上がってイエスに従う人生を開始せざるを得ません。なぜならイエスの招きは、ご自分の生命と引き替えに、私どもを神の宝の存在に作り変えるものだからです。つまり私ども一人一人が、神の子イエスの生命と同じほど価値のある者とされるという招きなのです。このためイエス様は「私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃったのです。

さて第二に神の招きには、目標があります。レヴィは最初一人でイエス様に従いました。しかしそれで終わりではなかったのです。「多くの取税人や罪人たちもイエスやその弟子たちとともにその席に着いていた」とあるように新しい交わり(社会)へと招かれているのです。この新しい社会はイエス様によって価値を与えられた者の集いであり、神の国の端緒なのです。
説教者:小野寺泉牧師

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