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小さな通信 第3号 1990年2月

お金のこと

2ヶ月に一度くらいに電話が入る、プラチナを買えというのである、柄にもないことだと断る、が、なかなか諦めず熱心にすすめてしまいには「いまどき財テクを考えない人は・・・」と忠告までされる。そうまで言われればこの国では財テクをしないのは、お金が無いか、知恵がないかどちらかのようである。土地・建物・穀物・生糸・金・銀・プラチナ・株式と大変なにぎわいである。しかしお金にまつわることは今に始まったことではなく、人の歴史と同時に始まったことであろう。今の世でも、歴史の中でもお金の力は国の一つ二つは簡単に覆しもするし、時には国を滅ぼすどころか、人の命さえも奪うことをさせるのが「お金」のもつ力である。しかし私たちの生活にとってお金のもつ有用さは大変なものであって、お金の無いのは「命」のないのと同じだなどと考える人もいるくらいである。

キリスト教の聖書でもお金についてのイエス様の譬え話が数多くあり、旧約聖書の創世記ではアブラハムのひ孫ヨセフがエジプトの宰相であった時、蓄えた穀物を武器に国民の土地すべてを買い取り、エジプト国民を一人残らず王家の奴隷にしてしまう物語がある。聖書を読まれるとお解り戴けることであるが、世の方々とおなじに、キリスト教徒たちも「お金」のことを大切に考えるよう求められている。それはこのような「お金」の仕組みを考えだし、作り上げて来た人間は、「神様」によって造られたものであるという信仰によるものである。「お金」について聖書が示す基本の事柄はこうである。



「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
マタイによる福音書 第6章24節

◆「イエスの権威」 礼拝説教要旨 1989年1月22日

マルコによる福音書 第1章21節〜28節   (C)日本聖書協会
 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
イエス様が会堂で悪霊を追放された、とマルコ福音書にあります。なんだか時代錯誤か、オカルトじみた話です。しかし悪霊というのは、要するに私どもを神様から引き離し、本来的な自分を分からなくさせるリアルな力のことなのです。この力をイエス様は追放し無効にされたのであると福音書は告げています。つまりイエス様は、悪霊を支配する権威をもっておられ、その方によって私どもを神様のものとなし、本来的な自分を回復してくださるお方であると語っているのです。

さて「会堂」というのは、ユダヤの国のどの村のどの街にもあるものです。そこでは律法学者が律法の解説や実践の指導にあたっていました。律法は、今日の旧約聖書のことであり、そこには神様の喜ぶ生き方が書いてあります。ですから人々は会堂に集い、一生懸命に律法学者の言うことに耳を傾け、またそれを実践しようとしていました。ところがその会堂に、悪霊に憑かれたまま放置されていた人が居たというのです。

この人の存在は、大切なことを無言のうちに伝えています。それは、人が律法を学び実践することによっては神に近づくことは不可能である、ということです。そしてこのことはそのまま宗教一般にあてはまることなのです。宗教とは、人が神(真理)に近づこうとする多少とも精力的な企てだからなのです。

イエス様は、このような「会堂」の中へ入ってこられ、その人から悪霊を追い出されました。これによってイエス様が「人から神へ」という宗教の道に終止符を打ち「神のほうが私どもに近づくという新しい恵みの道を開いて下さったのである」と聖書は告げています。いやイエス様ご自身がそのような恵みの力なのです。それぞれの人生の浮き沈みの中にあって、常に私どもを神様に結びつけて下さる方、それが恵みの君イエス様なのです。
説教者:小野寺泉牧師

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