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小さな通信 第11号 1997年2月

これらいっさいのものの上に愛を加えなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯である。

コロサイ人への手紙 第3章14節
(C)日本聖書協会
 聖書には美しい言葉があります。私たちの心を打ち、不思議と慰めや勇気を与えてくれます。上の言葉もそういう言葉のひとつです。愛だけがバラバラな人間を本当に結び合わせ、また私たちのなす事を意味あるものにする、そうこの言葉は告げています。
 ところで聖書の言葉はいつでもイエス・キリストのことを指し示しています。聖書はひとつの宗教の教えを記録している本というより、愛に生きたイエス・キリストを証言している本だからです。
 ですからこのみ言葉においてもイエス・キリストのことを考えずにはおれません。「これらいっさいのものの上に愛を加える」とは、私たちのなす善い行いの上にさらに愛という高い徳を加えるということではありません。むしろキリストの愛を受け容れ、キリストとの交わりを人生の土台とすることなのです。



若者の流行二つ

若者、特に女子高生の間に流行っているものが二つある。一つはポケベルである。友人の間で通信に用いるのである。多い生徒になると日に20・30回の通信を受けるという。その通信は深夜に及ぶことも多いという。しかしポケベルは片道通信である。電話のほうが同時相互通信で合理的であるはずである。ところがその合理性よりも「ポケベル」のほうを現代の若者は選んでいる。
友達のポケベルに通信を送り、その返事をひたすら(?)待つのである。なぜだろう?どういう人間関係がそこにあるのだろうか?

もう一つは自分や友達との写真を小さなシールにしたものである。そのシールを作る機械は小松にも登場している。数百円のお金で12枚のシールができる。そのシールを友人間でやりとりするのである。そしてそのシールをファイルしておくのである。多い生徒になると2百から3百のシールをコレクションしているそうである。コレクションが多ければ友人関係が広いということになるのであろうか。大人社会の名刺を連想しないでもないが、そこにはどんな人間関係があるのだろうか。

若者たちのつながりがバラバラになっており、そのつながりを「ポケベル」や「シール」で若者たちは補おうとしていると考えるのは、考えすぎであろうか?そしてそこから本当に満たされるものが生まれてくるのであろうか。

(N)

◆「子育て」について



先日、教育評論家であり音楽プロデューサーでもある松居和氏の講演を聞く機会があり、いろいろ考えさせられました。

私たち日本人が何かと真似しようとするアメリカでは、子どもたちを取り巻く環境がどうしようもないところまで来ているそうです。

「3人に1人の赤ちゃんが産まれたときからすでに父親がいない。」

「子どもたちのほとんどが麻薬を経験したことがある。大都市では麻薬の密売をしている小学生がいる。」

「デトロイト市では17歳以下の子供が最近の3年間に1000人撃たれ、150人が死んだ。撃ったのもほとんどが子供である。」

「高校を卒業する者のうち、20%は読み書きができない。」

なんと恐ろしい社会でしょう。どうしてこんな状況になったんでしょう。それはアメリカの親が「子育て」をしなくなったからだと松居氏は言います。

「子育て」という行為は本来家庭でするものだったのに、保育園、幼稚園まで含めた一つのシステムとしての学校教育が普及することにより、親たちが「子育て」を少しずつ学校に依存するようになり、「子育て」が家庭でその存在感を失っていったというわけです。

これはアメリカだけでなく日本はもちろん、先進国すべてに共通する状況です。考えてみますと、私も朝子どもたちを幼稚園や学校に送り出すとホッとし、子供から物理的に離れることに喜びを感じています。これは怖いことかもしれません。

子離れを急ごうとする傾向が世の中全般に広がっています。でも子離れなんかしてはいけないんだ、子育ては死ぬまでやめてはいけない親の務めなんだということに改めて気づかされたように思います。
(K)


◆最近思うこと(N.Mのささやき)


子供の成長の次には、お年寄りが控えています。女の人は本当に自分のやりたい事がなかなかやれませんよね。でもパール・バックの「大地」を読んだとき、阿藍が主龍のところへお嫁に来たら、きれいにお掃除をして貧しい材料でもおいしいごちそうを作れて家が裕福そうに見えてきたというところで、私はすごく感動したのを覚えています。主婦の力ってすごいのですね。立派な主婦をしている人を見るとなんだかあこがれます。私の友人でも主婦に徹した人はみんないい子を育てているようで、仕事と家庭を両立してきた私は子どもたちに大きな借りがあると思っています。(放っておいたのに)育ってくれてありがとうと感謝で一杯です。

育児の次は老人介護という話。とても身につまされます。女性はなかなか生きる方向を見つけるのが難しいですね。聖書には男の人(アダム)を助ける存在として女の人(エバ)が造られたとありますが、家庭を守るというのはそういうことかなと考えてしまいます。でも専業主婦をしているからといって子供が立派に育つかというと、決してそんなことはなく、両親とも仕事で忙しくしていても、立派に育っている家庭もあるわけですし、要は両親が充実した生き方をしているかどうかでしょうね。子供は親が思っているよりずっと親を見て学んでいるのです。私自身は子育てだけをしてきた自分の母を見て、こういう人生はいやだなと思ったんです。晴れた日に家にいて家族のために洗濯や布団を干したりできるのは、専業主婦の特権です。でもやっぱりそれだけで人生が終わるのはさみしいなと誰もが思うのではないでしょうか。子育ては時間が十分にあるからといって、十分なことをしてやれるわけではありません。立派に働きながら子育てをして、それでも母はやっぱり子供にすまないと思うものなんですね。父親は一生懸命働いて子供にすまないとやはり思うのでしょうか。疑問です。

一生懸命働いて「ただ今、遅くなってごめんね---。」って謝りながら、家に入っていく自分。ほんとうに夫はそんなこと言ったこともないですよね。何で謝るのかな?と思いながら、やはり謝ってしまう自分がいます。
世の中の主婦の中には「おーいお茶」と一回は言ってみたいと思っている方がいるのではと思います。私は子供が「お母さん、お水ちょうだい」というと「そうじゃなくて、『お水を今から飲むんだけれどほしい人いる?』って言える人になって」といつも言っているんですけど、なかなかですよね。男女というより最後は人間性の問題なのかしら?せめて我が子には男だ女だというのではなく人間として愛に満ちた生き方という観点から男女共生について話し合っていきたいです。

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