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小さな通信 第1号 1989年11月

◆礼拝説教について

皆様の住んでおられる町々にある寺院や神社が折にふれて神様や仏様を拝む場所であるのと同じように、キリスト教の教会も神様に礼拝を捧げる場所です。ここでは毎日曜日一度も休むことなく、(キリスト教2000年の歴史のなかで「聖書」の言葉に従いイエス・キリストの父なる神様に礼拝し続ける中で、定められた順序に従い)礼拝が続けられています。お祈りがなされ、讃美歌が歌われ、聖書が読まれ、その聖書の言葉に基づいて説教がなされます。一週間のまず最初の時に礼拝に加わることによって、神様に感謝し、ほめたたえ、礼拝の中で示される神の言葉を心に留め、その指し示しに従うことがキリスト教徒たちの生活であると言えます。このような礼拝の中での説教は特に大きな意味を持ちます。

このような訳で今日初めて皆様にお送りするこの「小さな通信」でも一月のうちの一回の礼拝説教要旨を載せていきたいと願っております。主題の聖書の箇所と併せてお読みいただければ幸いです。時には説教の中で使われている言葉にはキリスト教特有の言い回しもあるかと思いますが、どうか読み続けて下さるようにお願いいたします。

◆「神を迎える」 礼拝説教要旨

マルコによる福音書 第1章2節〜8節   (C)日本聖書協会
 預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの道を準備させよう。
 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
私たちはクリスマスを迎えようとしています。様々な想いをもって迎えようとしています。しかし実はそういう私どもがイエス様の到来を待ち望む位置にあるのだと聖書は申します。それはいったいどういう位置なのでしょうか。

聖書は、バプテスマのヨハネがに出現した2000年前の時を、荒野アドベント(待望)の時であると申します。しかしそれは2000年前の遠い昔のことだけではありません。私どものうめうめした人生の道筋が本来は「主の道」であると知らされた時、神様の生命に至る道にされると知らされた時、その時がアドベントの時なのです。つまり死に向かう人生のただ中で死を越える生命を願い求める時、私どもはアドベントの中にいるのです。

さて、このときに悔い改めと自分の罪の告白が求められています。それが自分の道筋を「主の道」になるよう完全に準備することだからです。「そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが・・・自分の罪を告白し・・・」と記されているとおりです。しかし神様の目から見て、私どもは悔い改めと罪の告白が決して充分できているわけではありません。さらにまた、地域の方々にあっては、そのようなことは知らずにいるわけです。それにもかかわらず聖書は、「全土と全住民」と語っています。つまり神は、私ども人間が神の独り子をお迎えするのに充分準備が整っていないにもかかわらず、それが完全に整ったと見なし、認めて下さったのであり、罪を赦すお方を遣わすと言うのです。この神の憐れみの故に、来たりたもうキリストを待ち望むことこそがアドベントにふさわしい態度ではないでしょうか。

しかもキリスト者にとって、特に大切なのは、待ち望むだけはなく、来たりたもうキリストの先駆けとしてヨハネと同じ位置に立つことです。そしてヨハネとともに証しする事です。「来たりたもうキリストは因果応報の鎖を撃ち破られた。すべての人を永遠の生命の相続者とするために。そのために来たり、十字架にかかりたもう。」と。

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