礼拝式の意味(連載中)


小松教会の礼拝順序

礼拝への招き ☆☆ 前奏 ☆☆
招詞 詩編 第100編1節〜2節
讃詠
罪の告白 交読詩編
讃美歌
神のみ言葉 聖書
祈祷
讃美歌
説教
祈祷
讃美歌
聖餐
感謝の応答 讃美歌
信仰告白 日本基督教団信仰告白
献金
祈祷
主の祈り
祝福と派遣 宣教報告
頌栄
祝祷
後奏

礼拝への招き

「前奏」はなぜあるのか?

 礼拝とは<神様を拝むこと>ですが、日常生活の中から神様の御前に集まってきた私たちには、やはり準備の時間が必要です。心を落ち着け、神様の御前にあることを想い、聖霊のお働きを受けるために準備をするのです。そして、その様な私たちの心と霊とを神様の方へと導いてくれるのが前奏です。
 ある人は、そのような大切な役割を果たす前奏を螺旋階段にたとえました。前奏が私たちを導き、螺旋階段を登って行くように主なる神様の御前に連れて行ってくれるというのです。
 前奏の時間を大切にし、神の御前にある静けさを楽しむようにしましょう。そして、神の招きである招詞を皆で待ちましょう。

「招詞」とは何か?

 教会は、聖書の言葉であるギリシャ語では「エクレシア」と言いますが、それは「呼び集められた者たちの群れ」という意味です。教会は、正に礼拝において、神様によって呼び出された者たちとしての真の姿を現します。
 神様が私たちを礼拝へと招いてくださったことが告げられるのが「招詞」です。「前奏」によって心と体を神様へと向けた私たちに、神様からの第一声、招きの言葉が告げられるのです。
 「招詞」の言葉を皆と共に待ちましょう。神様の招きが、この自分にも、あの兄弟にも、あの姉妹にも、あの求道者の方にもあることを、皆で共々に受け止めるのです。

なぜ礼拝は「招詞」から始まるのか?

 礼拝は「招詞」から始まりますが、それにはキチンとした信仰的理解があります。即ち「礼拝は、神様が私たちを御前に招いてくださって初めて成り立つものである」との理解です。つまり、神の招きが、私たちのあらゆる礼拝行為に先立つのです。
 前奏に導かれて心と体を礼拝へと整えつつ、神様の招きの言葉を待ちましょう。そして、告げられた神の招きに応えて、私たちは立ち上がり、神に向かって讃詠を歌うのです。

「讃詠」を歌うことは最も人間らしい行為?!

 「讃詠」は、神の招きに対する応答であり、礼拝において最初に歌われる讃美歌です。礼拝へと招いてくださった主なる神を讃美し、神のみが崇められるよう祈りつつ歌います。
 私たちは日常の歩みにおいて、神を崇めることを忘れ、魂が地べたを這いつくばっているような状態になることがあります。そのような私たちを、主なる神は御前に召し出してくださり、私たちはその招きに応えて、魂を神へと上げて歌うのです。讃詠を歌う時私たちは、神のみを讃美し崇める、最も人間らしい姿を取っているのです。

なぜ礼拝において「罪の告白」がなされるのか?

 改革長老教会の伝統の一つに「私たち人間は神の御前に罪を告白することなくして、神の御言葉を聴くことはゆるされない」というものがあります。私たちの信仰の先達たちは自らの罪を真剣に受け止め、「罪の告白なくして神の御言葉を聴くことはできない」と信じて主を礼拝してきたのです。
 私たち人間は本来、神様の御前に出ることのゆるされない存在でした。その私たちが、主イエス・キリストのゆえに、神の御前に出ることがゆるされたのです。そういう私たちが、一週間の歩みを終えて主の御前に進み出る時、何よりも先ず自らの罪を言い表し、主の御前に跪くことが求められているのです。
 共々に、主の御前に跪く思いをもって罪を告白し、主の御言葉に耳を傾けていきましょう。

救われた人間は神への讃美を歌う!

 讃美は、教会の礼拝を構成する重要な部分であり続けてきました。教会は、主の救いに与った者たちの群れとして、主なる神への讃美を歌います。そして、主キリストによって救われた人間の最大の特徴は「神をほめたたえる人間に造り変えられたことである」とも言えるでしょう。
 改革長老教会では伝統的に詩編歌が歌われてきましたが、それは現在の私たちの教会ではなお今後の課題となっていると言えます。しかし、いずれにしても、讃美は<神様への喜びの応答>であり<神への感謝を歌によって表明すること>です。礼拝において讃美を歌い上げる時、私たちは最も人間らしい姿を取っているのです。

神のみ言葉

礼拝の中で最も権威ある部分

 聖書朗読は、礼拝の中で最も権威ある部分です。
私たちは時として「聖書朗読に耳を傾けることよりも、説教を聴くことの方が大切だ」と思っているかも知れませんが、それは誤りです。説教は聖書の権威に服するものであり、その解き明かしでなければなりません。その意味で、聖書朗読は説教以上に重んじられる必要があります。
 共々に、主なる神の語りかけを聴くようにして、聖書朗読に耳を傾けましょう。

聖書朗読を聴くこと

 私たちは聖書の文字を目で追うことになれていますが、本来聖書の御言葉は耳で聴くものです。とりわけ、公の主日礼拝において大切なことは、聖書の御言葉を心の耳で聴くことです。
 礼拝では、聖書の朗読を、神様からの語りかけとして共に耳を傾けましょう。

聖書朗読〜〜なぜ旧約と新約から朗読されるのか?〜〜

 小松教会の主日礼拝では、通常、旧約と新約からそれぞれ一箇所ずつ聖書朗読がなされます。
 旧約39巻と新約27巻の計66巻は、夜空の飛行機を映し出すサーチライトのように、主イエス・キリストを照らし出しています。旧約は、預言という仕方で、主イエス・キリストの到来を目差して語っています。また新約は、預言の成就という仕方で、主イエス・キリストを語っています。66本のサーチライトが、主イエス・キリストを、三位一体なる神を、語っているのです。
 私たちは、旧新約全巻からキリスト証言を聴いていきたいと思います。特に、軽んじられやすい旧約聖書を重んじて行きましょう。

説教前の祈祷

 説教前の祈祷は、礼拝者を代表して、長老または牧師によってささげられます。
 その祈りの内容は、まず<過ぎし一週間を支えてくださった主なる神への感謝と讃美>です。
 礼拝と生活は密接不可分に結び付いています。公的主日礼拝において私たちは、主によって派遣されて過した一週を振り返り、その生活を支えられたことを主に感謝し、主を賛美するのです。
 説教前の祈祷の際は、共々に過ぎし一週を主の御前に振り返り、主への感謝と賛美をささげましょう。

 説教前の祈祷では様々な事柄が祈られます。次に<聖霊の臨在を求める祈り>です。
 聖霊なる神様は、主の弟子たちが複数集まっている所に来て下さる方ですが、主日礼拝では取り分け、主の御言葉が聞き届けられるように聖霊の臨在を祈り求めます。それは、聖霊なる神のお働きなくしては、私たち人間は神の言葉を聞き届けることができないからです。具体的には、説教者が御言葉を語ることができるように、会衆一同が御言葉を聞き届けることができるように、皆で聖霊のご臨在を求めます。
 聖霊の臨在に与って、主の御言葉を聞き届けていきましょう。

 説教前の祈祷には様々な要素が含まれています。<執り成しの祈り>を取り上げます。
 主日の公の礼拝において<執り成しの祈り>がささげられます。今日礼拝に与ることのできなかった、あの兄弟、あの姉妹のために。病床や試練の只中にある者たちのために。全世界の諸教会のために。神の御前で世を執り成して・・。教会の祈りの翼は無限に広がって行きます。
 日曜日の公の礼拝において、祝福の源とされた礼拝共同体として、執り成しの祈りを共にささげましょう。

 説教前の祈りについて、ウェストミンスター神学者会議が以下のような指針を提示したことは歴史的重大事でした。
――説教前の公的祈りについて――
「み言葉の朗読の後、説教にあたる牧師は、自分自身と彼の聴衆の心が自らの罪を正しく知り、すべての人が主の御前にそれを覚えて嘆き悲しみ、恥と聖なる狼狽とをもって罪をより十分に告白して、イエス・キリストにおける神の恵みを飢え渇き求めるように導くことに務め励み、以下のようにして主を呼び求めねばならない。・・」

説教前の讃美歌

 説教前の讃美歌は、その日に与えられた聖書の御言葉に関わる歌がよく選ばれます。
あるいは、御言葉の解き明かしを聴くに当たり、その備えと導きになるような讃美歌が選ばれます。
 説教前の賛美において、今から御言葉を語りたもう主の御前にあって、心からの賛美をささげつつ、御前にひれ伏しましょう。

説教

 説教にも様々な個性やスタイルがありますが、聖書に基づかない説教は神の言葉ではありません。通常「説教が神様の御言葉である」と言われるのは、その説教が聖書の御言葉の解き明かしである場合です。
 主日礼拝への備えとして、聖書朗読と祈りは欠かすことができません。声を出して聖書を読み、祈り、主の日に備えましょう。その様にして、皆が聖書を中心にして礼拝に臨む時、聖書の解き明かしである説教が神の言葉として語られ、聴かれます。説教が聖書によく合致している時、それは私たちが聴従すべき神の御言葉なのです。

 一般の講演を聴く場合に大切なことは「この講演者は一体何を語りたいのか」を聴き取ることです。
 しかし、説教の場合はそうではありません。説教を聴く場合に大切なことは「主なる神様は説教者を通して私たち(教会)に何を語るか」を聴き取ることです。
 説教においては「この説教者は何を語りたいのか」という聴き方は誤った聴き方となります。説教者も聴衆も共々に主の御前に跪き、「主よ、お語りください。僕は聞いております」と祈りつつ説教に臨みましょう。主が説教者を通して語り掛けられる御言葉を待ち望みながら。

 説教には大きく分けて講解説教と主題説教とがあります。
 講解説教は、聖書の中から一書(例えばマタイによる福音書)が選ばれ、通常連続して解き明かされていく説教です。この説教のあり方は、聖書から好きな個所を選り好みすることなく、一書全体から福音を聴いて行く利点があります。
 主題説教は、一定の主題を中心にして聖書テキストが選ばれる説教です。特別伝道礼拝の時や、長老が説教する場合には、通常このタイプの説教となります。
 いずれにしても、説教は、説教者個人の思想や見識が述べられる場ではありません。聖書に基づいて、今生きて働いておられる主なる神を証しし、福音を告げ知らせるのが説教の本務です。

説教後の祈祷

 説教後の祈りは説教者によってささげられます。しかし、それは説教者個人の祈りではなくて、会衆全体を代表する祈りです。
 その祈りの言葉は様々ですが、今日与えられた神の御言葉が私たち自身のうちに結実し、その御力を発揮するよう祈ります。私たちの人生・生活・歴史の只中に、主の御言葉が聖霊によって力強く働くよう祈るのです。
 説教後の祈りでは、私たち会衆一同心を合わせて、主の御言葉のご支配が私たちの現実の只中にあるよう祈りましょう。

説教後の賛美歌

 説教後の賛美歌は、神の御言葉(説教)に対する感謝の応答です。聖書は「主を賛美するために民は創造された(詩編102編)」と語っていますが、正に説教後の賛美がそれに当たります。
 神の御言葉を聴き、主に向かって賛美をささげる時、私たちは神によって創造された神の民として姿を現しているのです。神の御言葉に応答して主を賛美する時、私たちは最高度に人間らしい姿を取っているのです。

聖餐

 聖礼典には<洗礼と聖餐>の二つがあります。
 従来、教会はこの二つの礼典を「目に見える神の言葉」と呼び習わしてきました。それは、聖礼典が、福音の説教と共に神の民の只中で執り行われる時、神の言葉が目に見える仕方でありありと伝わってくるからです。
 人は、洗礼によって主キリストと一体となり、聖なる公同教会の一員となります。また人は、聖餐によって、今一度神の国の食卓に与(あずか)る者とされ、終末時の大宴会に招かれている者として、主キリストの再臨を待ち望むのです。

 聖餐において配られてくるパンは、元々一つであったパンを主イエス・キリストが裂いて、御自分の御体を与えてくださるように、一人一人に分け与えてくださるものです。それゆえ、聖餐において現されている事の一つは「聖なる公同教会は一つ、一つなるキリストの体である」ということです。
 小松教会では、主日礼拝における聖餐の他に訪問聖餐を行っています。病床にある兄弟姉妹、施設に留まらねばならない兄弟姉妹のもとに、主が出かけて行ってくださり、その兄弟姉妹たちも主にあって一つなる神の民であることが確認されるのです。
 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、聖餐は一つ、です。

 聖餐は「神の国の食卓」と呼ばれます。私たちは、神の国が完成する日を待ち望みながら、今ここで「神の国の盛大な祝宴」のその前味に与るのです。
 天地の造り主なる神が全ての御業を完成される日、それは、主イエス・キリストが再びこの地上に来られる日です。私たちは、主が再び来られ、その恵みの御支配を完成してくださるのを待ち望みながら、今ここで祝宴の前味に与るのです。
 私たちは、礼拝の度毎に、終末における神の国の大祝宴を仰ぎ見ながら、主の聖名を呼び、主を拝しましょう。

 聖餐は、今生きて現臨してくださる主キリストの御前において与るものですが、その際に<想起>と<待望>が行われます。
 想起とは、主イエス・キリストの御生涯、取り分けその十字架と復活の出来事を思い起こすことが中心です。また、待望とは、今は天におられる主キリストが、もう一度この地上に来てくださることを待望することが中心です。
 聖餐において私たちは、主が来られることを待望しつつ、主の過去を想起し、主の現臨に与るのです。

 主イエスはヨハネによる福音書6:53で次のように約束しておられます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
 私たちは聖餐に与る時、十字架に架けられた主イエスの肉を食べ、血を飲むのです。それは、臨在される聖霊の御力によって、天上の主イエスと地上の私たちとが一体となる時です。
 聖餐に与る時、主は私たちに宣言してくださいます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と。

聖餐後の讃美歌

 聖餐直後の讃美歌では、聖餐の主であられるキリストを仰ぎ、三位一体の神に感謝をささげます。最後の晩餐の夜、テーブルマスターであられた主イエスが、全世界の聖餐における主であられます。私たちは、主の食卓に与ることをゆるされた喜びを、全世界の兄弟姉妹たちと共に賛美をもって歌うのです。

感謝の応答

信仰告白

 説教において神の御言葉を聴いた私たちは、賛美をもって主に応答すると共に、信仰を告白することによって主に応答します。
その場合、教会は伝統的に使徒信条やニカイア信条によって公同教会の信仰を言い表してきました。現在、小松教会では日本基督教団信仰告白を用いていますが、それは、その中に使徒信条が含まれているからです。
 いずれにせよ、私たちは、時代と場所とを超えた<聖なる公同教会の一員として>信仰を告白し、主に応答しているのです。

献金

 献金は、神様の恵みに対する応答であり、私たちの感謝と服従を表す礼拝行為です。私たちはお金を献げることによって、自分自身を主の御用のために差し出しているのです。そのような意味で、献金は<献身>です。

献金後の祈祷

 献金と共に、礼拝者一同を代表して奉仕者が祈りをささげます。その基本的な内容は以下に示す通りです。
ご在天の父なる神様
主のご復活を記念する朝に、恵みの御座へと召し出して下さり、感謝いたします。
ここに、あなたへの献身のしるしとして、献金いたします。
あなたの御業のためにお用い下さい。
また、私たち自身を、あなたの御栄えのために用いて下さい。
主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン。

 献金後にささげられる祈りは、礼拝者全体の祈りであって、単なる個人的な祈りではありません。また、その祈りの基本的内容は「この献げものと共に私たち自身をあなたに献げます」ということです。
 それゆえ、献金後の祈りでは、主に向かって献身の意を言い表すことを中心に据えて、ごく簡潔に祈ります。説教の内容を繰り返すような冗長さは避け、主に対する献身を礼拝者全体で言い表しましょう。

 献金は、私たちの神様に対する“献身のしるし”です。
 献金は、前日の夜までに祈りをもって準備しておきましょう。

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
 このローマの信徒への手紙第12章1節は「礼拝とは何か」「献金とは何か」を最も明確に言い表している御言葉の一つです。即ち「礼拝(献金)とは、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げること」です。
 それゆえ、献金後の祈りでは「献身のしるしとして」ないしは「私たち自身をあなたに献げます」という祈りの言葉が不可欠です。献身の表明のない献金の祈りは的外れと言えます。主の恵みに応えて自らを献げることを祈りましょう。

主の祈り

 主イエスは、「主よ、・・私たちにも祈りを教えて下さい」との弟子たちの願い出に対して<主の祈り>を教えて下さいました。
 真の神への祈りは、生来私たちの心に備わっているものでもなければ、私たちの創作によるものでもありません。主イエスから教えられ、授けられて、私たちは神への祈りを学んでいきます。それは、具体的には、教会の先達たちから私たちは祈りを継承してきている、ということです。
 そのような真の神への祈りの中心に<主の祈り>があります。この祈りは主が自ら祈られた祈りであり、「あなたがたもこの祈りを祈りなさい」と主から命じられている祈りです。
 主日礼拝において、日々の生活において、主の祈りを共に祈って行きましょう。

 主の祈りは、主イエスが自ら祈られた祈りであり、同時に、私たちに祈るようにと命じられている祈りです。
 それゆえ、「天にまします我らの父よ」と神に呼びかける時、その中心にいますのは主イエスです。そして、私たちはこのお方に招き入れられて、主と共に祈りをささげるのです。
 主の祈りは「我らの」祈りです。それは、主イエスを中心とした共同体(教会)の祈りなのです。

 使徒パウロは「聖霊とはこのようなお方だ」と言って次のように述べています。
「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に言い表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマの信徒への手紙 第8章26節)
 主の祈りは、どう祈るべきかを知らないわたしたちに与えられた<祈りの基準であり規範>です。主イエスと共に、聖霊に執り成されて、主の祈りを共にささげましょう。

祝福と派遣

宣教報告

 主日礼拝は神の祝福と派遣によって終了します。そして、神の派遣を具体的に告げるのが宣教報告です。
 私たちは、主の礼拝に与った者たちとして、それぞれの持ち場と役割に派遣されて行きます。神の国の奉仕者たちとして、御言葉と聖霊によって押し出されつつ、新しい週の歩みへと出て行きましょう。

 宣教報告では、今週行われる宣教活動の予告、及び、小松教会をはじめ、地域の諸教会や全体教会のことを覚えて報告がなされます。それは、報告された諸活動に進んで参加すると共に、参加できない場合にもそれらを覚えて祈るためです。
 今も生きて働いておられる聖霊なる神の働きが力強くあるよう、教会全体の祈りを合わせましょう。また、その聖霊の御業に参与できる幸いを神に感謝しましょう。

頌栄

 頌栄とは、私たち礼拝者の全存在をあげて主をほめたたえ、三位一体の神に全栄光を帰することです。それは、私たちの地上の生涯が最後頌栄をもって閉じられるべきことを示しており、終末において現れる<聖なる公同教会の主をほめたたえる姿>を先取りしています。
 私たちは頌栄において、三一の神御自身とその聖なる御業を力の限りほめたたえ、全栄光を神に帰するのです。

 頌栄とは、私たちの全存在をあげて神をほめたたえ、神に栄光を帰すことですが、それは私たち信仰者の行き着くゴールを示しています。信仰生活には喜びがあり、試練があり、戦いがありますが、その最終的ゴールは頌栄です。
 終わりの日に、主キリストは全キリスト教会の姿を顕わにしてくださり、聖霊を降り注いでくださり、三位一体の神への頌栄が満ち溢れます。礼拝において私たちは、その最終的歓喜を先取りして頌栄を歌うのです。

祝祷

 礼拝は、神の招きに始まり、神の祝福をもって終わります。それは、私たちの人生の最後に神の祝福があり、世界の歴史もまた神の祝福によってその完結を見ることを示しています。
 礼拝の最後には、主の御前に跪き、主の祝福を受け、アーメンと応えて、全栄光を主に帰しましょう。

 祝祷は「神の祝福を牧師が祈る」という意味で「祝祷」と呼び習わされてきましたが、そこで起っていることは、神の礼拝者に対する祝福の宣言であり派遣です。
 私たちは、礼拝の最後に神の祝福を身に受けて、日々の生活へと、それぞれの持ち場立場へと派遣されていくのです。

 現在、小松教会の礼拝では次の言葉によって祝祷がなされています。
  主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
  主が御顔を向けてあなたを照らし
  あなたに恵みを与えられるように。
  主が御顔をあなたに向けて
  あなたに平安を賜るように。
  主イエス・キリストの恵み
  神の愛
  聖霊の交わりが
  あなたがた一同と共にあるように。
                   アーメン。

後奏

「礼拝における後奏曲は、宣教への前奏曲である。」という言い方がなされる場合があります。
 私たちは、後奏によって、主の恵みを深く味わい知らされると共に、主の宣教活動へと派遣されていくのです。それぞれに主から与えられた生活の場へと、新しく主によって、主とともに、遣わされていくのです。
 心を静め、後奏を深く味わい、主によって派遣されていきましょう。


(C)日本聖書協会

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