「聖書を読もう!」
−黙想のススメ−

  1. 黙想のススメ

「黙想」とは、日々の生活の中で聖書の御言葉に生かされるための方法です。実は「黙想」は、これまでにやったことのない新しいやり方ではありません。たとえば、教会学校の説教を準備したことのある方は、この作業を多かれ少なかれやっています。説教を準備するときに考えることは、主なる神はこの聖書の言葉を通して、わたしに、あるいは、わたしたちに、何を語りかけているのだろうか、ということだろうと思います。そこでは、すでに「黙想」が始まっています。また礼拝説教を聴きながら、聖書の御言葉と自分の人生について様々に思いを巡らせることがあると思います。それも、また「黙想」です。
「黙想」は決して難しいことではありません。そして、それはわたしたちの信仰生活をより確かなものにします。「黙想」によって、神を忘れ不平や不満に満ちた生活から、神と共にある感謝と喜びに満ちた生活へと変えられていくでしょう。主イエスが御言葉を種に譬えられ、その成長を語られたように、わたしたちの信仰も日々成長していきます。
そして、それは自分を養うだけでなく、結果として主のご栄光を証しする伝道となるのです。伝道は、特別なことではなく、わたしたちの生き方そのものによって、主なる神が世に働かれていることが明らかにされることです。主イエスのことをあえて語らずとも、主の救いの恵みに生きる人を会えば、自分もそこに行きたいと思うのではないでしょうか。

  1. 黙想とは

@黙想とは、聖書を読む伝統的な方法の一つで、聖書の御言葉を神の言葉として、そのまま読み、その御言葉に思いを巡らせること。

わたしたちは、いつのまにか聖書は誰かに解説されなければわからないものだと思いこんではいないでしょうか。そして自分で聖書の御言葉そのものに触れるよりも、注解書や解説書などを引っ張り出して調べ、他人の意見を聞いて、聖書がわかったつもりになることが多いのではないでしょうか。しかし、聖書は牧師や聖書学者たちだけのものではありません。神は、聖書を通して、あなたに語りかけておられます。そのように自分に語る神の言葉として聖書の御言葉を聞く。それが「黙想」です。
一人で聖書を読むと自分勝手に読み込んでしまうと心配される方があります。そういうこともあるでしょう。しかし、そのためにわたしたちには、信仰告白、使徒信条が与えられています。信仰の急所を短くまとめたものが、信仰告白であり、使徒信条です。また主日礼拝、聖書を学び祈る会、家庭集会などにおいても、御言葉の解き明かし、また教理の学びがあります。それによって、わたしたちは、自分の思い込みが明らかにされ、正しく聖書に聞くことができるよう導かれます。

A黙想とは、聖書の御言葉が語り始めるのを待つこと。

黙想の時は、自分が黙るときです。自分が黙って神の御言葉に集中し、御言葉が語りだすまで待つ事です。しかし、それは、瞑想のようにただ黙って静かにしているのではなく、その人の中では、御言葉を通しての神との対話が始まっています。そこには、神の御言葉に対する恐れと困惑があり、また喜び、慰め、感謝、悔い改めなどがあります。
たとえば、詩編を読むとき、その言葉がわたしのために書かれたように思われることがあります。その言葉の解説を読まなくても、その言葉がわたしに語りかけるのです。黙想は、そのような体験を深めることでもあります。
先ほど黙想は難しくないといいました。それは本当ですが、神の語られる言葉を待つことには、練習が必要なことも事実です。ついつい神の御心よりも自分に都合のいい思い込みで、その御言葉を解釈しようとすることもあります。ですから、注解書や聖書の解説がまったく必要ないということではなく、時にそれを参照することも大切ですし、何よりも礼拝の説教において主の御言葉を聞き続けることがいよいよ大切になります。

  1. 黙想の心得

@聖書の御言葉を読む前に、聖霊の導きを祈ります。

黙想は祈りに始まり、祈りに終わります。黙想を通して、祈りの言葉が与えられ、祈りが豊かにされます。

A与えられた聖書の御言葉を何度も読みます。

黙読でもかまいませんが、できれば音読します。黙想で大切なことは、声に出して聖書を読むことです。心の中で繰り返すだけでなく、口に出して自分で自分に御言葉を読み聞かせるのです。黙想について、ルターは次のように語っています。「(何度も読むことにあきて)、一度も二度もすでに十分読んだし、聞いたし、語った、何でも根底からわかっているのだなどと考えないように注意しなさい。・・・そのような人は季節外れに実を結んだ果物のように、まだ半分も熟さないうちに落ちてしまう」。聖書の言葉は、声に出して読んだ時と、ただ黙って読んだときでは、ずいぶん印象が違います。小さい声でもかまいません。ぜひ一度、お試しください。

B黙想で大切なことは、「受け身」になること。慌てないことです。

自分が黙り、神のほうから語りかけてくださることを待ちます。そのために、ぼーっとすることも時には大切です。神の言葉を聞こうとするあまりに焦ることがありますが、その必要はありません。黙想においては御言葉に集中しつつ、同時に放心することも大切です。自分から求めないとき、御言葉の方からすっと入り込んでくるのです。

C黙想で与えられた思いを言葉にしてみる。

黙想で与えられた思いは、言葉にすることによって確かになります。できれば専用のノートを作り、書き留めておくのもよいでしょう。

D黙想は、繰り返すことで身につく。

黙想は、信仰生活に欠かせない御言葉に生きる生活を具体的に導く方法です。野球選手は日々素振りをし、声楽家は日々ボイストレーニングをします。それと同じように、洗礼を受け、救いに与ったキリスト者は、その救いの恵みに生きるために、日々聖書を読み、黙想をするのです。

  1. 与えられた思いを言葉にして、分かち合おう

黙想において与えられた恵みは、口に出して主にある兄弟姉妹と分かち合うことによって、より大きくなります。それは聖書の御言葉の豊かさ、限りない神の愛と恵みを教えられるときです。この時、素晴らしいことや格好のいいことを語ろうとしないことが大切です。ただ黙想によって与えられた思いを素直に語ることです。始めはうまくいかないこともありますが、回をかさねるに従って語れるようになります。また聞くほうも、否定的な思いで聴くのでなく、まず語られる言葉をそのままに受け入れることが大切です。