詩編


第1編1節〜6節

2004年12月26日(日)
本当に<幸いな人>とは誰でしょうか。詩編は歌います。「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」主の教えを愛すること、それは主の御心と一つになって生きることです。――私たちにとっての常なる誘惑は<自分にとって損か徳か>という視点だけで物事を判断し、行動してしまうことです。その時私たちは、自分で自分の身を守ろうとしており、主の絶大な守りを忘れ、返って不自由になっています。そして、その様な私たちに詩編は主を賛美しつつ歌うのです。「いかに幸いなことか。主の教えを愛する人は!」――主が世界の審判者であることを信じ、主に逆らう悪を避け、<主の御心と一つに生きる幸い>を味わい知りたいと思います。主よ、あなたの御教えによって私たちを養い育て、豊かに実を結ぶあなたの木とならせてください。

第2編1節〜12節

2004年12月27日(月)
「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう。」自由を宣言する人間の大号令です。そして、この大号令は現代世界に鳴り響いています。「自分は何者にも従わない。あらゆる枷をはずし、縄を切って投げ捨て、自分の自由に生きるのだ」と。日本には一国を治める王は存在しません。しかし自分の自由のみに生きる小さな王は存在します。私たちは神を畏れず生きる時、皆小さく悲惨な王様なのです。そしてその様な歩みの行き着く先は明白です。自己破滅であり、人間関係の崩壊です。しかし、その様な悲惨な私たち人間の只中に、父なる神は愛する御子をお遣わし下さいました。私たちは、御子キリストに仕え、御子と共に生きる時、人間性を回復し、人間関係をもう一度立て直して行くことが許されるのです。「すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び踊れ。」主イエスこそ真の王、僕となられた主の主です。

第3編1節〜9節

2004年12月28日(火)
この賛歌は、ダビデにとって人生最大の試練の只中で歌われました。息子アブサロムが謀反を起こして武力蜂起し、今まで従ってきていた兵士の多くは既に敵陣に回っています。敵の勢力は日々増し加わり、「彼に神の救いなどなるものか」との声が聞こえてきます。ダビデは既に敵陣に包囲されつつあり、死が刻々と押し迫ってきています。しかし正にそこで、ダビデは死の谷底から主に呼ばわります。ダビデにとっての唯一の救いは“主にのみある”のです。「主よ、立ち上がって下さい。私の神よ、お救い下さい。・・救いは主のもとにあります。」――主の助けと救いを求めて、今日一日を生きましょう。

第4編1節〜9節

2004年12月29日(水)
息子アブサロムの謀反によって都を追われ、頭を覆い、裸足で落ち延びる王ダビデです。彼と同行兵たちは皆、泣きながら山道を登るのでした。「呼び求める私に答えて下さい。私の正しさを認めて下さる神よ。苦難から解き放って下さい。憐れんで、祈りを聞いて下さい。」――苦難と試練の只中に置かれた者の<一筋の祈り>が7節です。「主よ、私たちに御顔の光を向けて下さい。」主がその御顔を私たちに向けて下さること、それが、一切の解決であり、私たちの真の喜びであり平和です。――主なる神様は、十字架と復活の主イエスにおいて、その御顔の光を私たちに向けて下さいました。私たちはこの方と共に歩む時、何者をも恐れる必要はありません。今日一日、万軍の主と共に歩みましょう。

第5編1節〜13節

2004年12月30日(木)
神は「決して逆らう者(罪人)を喜び神ではありません。」それ故に「悪人は御もとに宿ることを許され」ません。神は私たちの罪を大目に見るような方ではないのです。――しかし同時に、神は慈しみ深い方でもあられます。「しかし私は、深い慈しみをいただいて、あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたを畏れ敬います。」ここに、御子キリストの血により、罪赦されて神の御前に出る者の姿があります。――しかし神の慈しみをいただいた者には、神に逆らう者による苦難が押し迫ってきます。「彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで、喉は開いた墓、腹は滅びの淵。」彼らは背きに背きを重ね、自分たちの思いを実現しようと企みます。しかし神の御名に頼る者には真実なる喜びがあります。「あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。」――「主よ、朝ごとに、私の声を聞いて下さい。朝ごとに、私は御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます。」

第6編1節〜11節

2004年12月31日(金)
悔い改めの詩編です。私たちは神が味方であると知る時、何者をも恐れる必要がありません。しかし神の怒りを感知する時、私たちは木の葉が落ちるのにも動揺を覚えるのです。「主よ、怒って私を責めないで下さい。憤って懲らしめないで下さい。主よ、憐れんで下さい。私は嘆き悲しんでいます。主よ、癒して下さい、私の骨は恐れ、私の魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。」――その様な私たちにとって唯一の救いの光は「主の憐れみ」です。そしてそれは、十字架と復活の主において啓示されました。

第7編1節〜18節

2005年1月1日(土)
主の裁きとは、単に打ち滅ぼすことではなく、神の慈しみと正義が明らかにされ、現実化することです。そしてそれこそが、聖書の民の最終的祈り、全人類の救いです。――主イエスにおいて現れた神の慈しみと正義が、教会を基として全世界に現されますように。

第8編1節〜10節

2005年1月2日(日)
詩人は驚いています。人間が<神の創造の冠>として造られたことを。その指で宇宙に月と星を配置された主。そのあなたが御心に留めて下さるとは、人間は何者なのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みて下さるとは。ここで「顧みる」とは「訪ねて来られる」ことです。夜空に月と星を配置された天地の造り主が、朽つべき人間を訪ねて来られるのです。――あの聖夜に、主はその栄光の御姿を捨てて、僕の姿をとって人間世界に訪ねて来られました。神との交わりを失い、神から離れた敵対者を、神との永遠の交わりに回復するために。十字架の上に殺害されて、神に敵対する人間が赦されるために。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めて下さるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが訪ねて来て下さるとは。

第9編1節〜第10編18節

2005年1月3日(月)
詩人は<神の義>に飢え渇きつつ歌います。「神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。神に逆らう者は高慢で神を求めず、何事も神を無視してたくらむ。」「なぜ、逆らう者は神を侮り、罰などはない、と心に思うのでしょう。」そして神に逆らう者のある所、罪なき人の血が流され、絶望の叫びが上がります。「村はずれの物陰に待ち伏せし、不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す。・・不運な人はその手に陥り、倒れ、うずくまり、心に思う。『神は私をお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みて下さらない』と。」しかし詩人は深い淵から神に希求して歌い上げます。「主は裁きのために御座を固く据え、とこしえに御座に着いておられる。御自ら世界を正しく治め、国々の民を公平に裁かれる。」「主は流された血に心を留めて、それに報いて下さる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。・・神に逆らう者、神を忘れる者、異邦の民はことごとく、陰府に退く。乏しい人は永遠に忘れられることなく、貧しい人の希望は決して失われない。」そして福音はこう告げます。神自ら人となり、裁き主である方が裁かれる者となった、と。その様にして主は、あの十字架の上で人類を裁きつつ人類を赦された、と。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」

第11編1節〜7節

2005年1月4日(火)
敵は詩人の魂を攻撃して言います。「世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか」と。世の秩序がその根底から覆っている。それは現代世界の有様をも物語っている言葉です。そしてそこでの虚無は<主に従っても虚しい>との思いです。人間の魂を蝕む敵の攻撃がここにあります。――詩編は繰り返し、主なる神が私たちの有様をつぶさに見ておられ、正しい裁きを行われると歌います。正しく且つ恵みに満ちた裁きによって。「主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けて下さる。」
主キリストのゆえに義とされた恵みを信じ、今日一日、主の御顔の前に生きましょう。

第12編1節〜9節

2005年1月5日(水)
詩編は恐ろしいほど現代的です。友に向かって偽りを言う滑らかな唇。その心は二心であり、こう嘯きます。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。私たちに主人などない。」私たち人間の悲惨がここにあります。<自分には従うべき主人などない、自分自身が主人だ>という悲惨です。そこでは、自分の唇が主のためにあることを知らず、自分が自分の主人となるより他ありません。しかしその自分が、二心で友に偽りを言う自分なのです。――主がこの世を顧みて下さるように。この地上を正しく裁いて下さるように。「主よ、あなたはその仰せを守り、この代からとこしえに至るまで、私たちを見守って下さいます。」今日一日、主に見守られて、自分の唇を主のために用いましょう。

第13編1節〜6節

2005年1月6日(木)
「私の神、主よ、顧みて私に答え、私の目に光を与えて下さい。死の眠りに就くことのないように。」この祈りに、主が応えて下さったのがクリスマスです。主イエスこそ私たちの永久の光です。この方は馬小屋に来られ、その地上の生涯の最後に十字架に上げられました。そして、主は死に打ち勝ち、永遠の光として復活されました。――この主イエスの御顔に神の輝きが照り輝いています。この方の眼差しの下、今日を生きましょう。

第14編1節〜7節

2005年1月7日(金)
長老教会の信仰の伝統に<全面的堕落>があります。最初のアダム以来、神の御前に、神の御心(=善)を行う人間は一人もいない、との教会の信仰です。キリストなき所では、誰一人、神の御心に適う善を行う者はいないのです。――詩編は歌います。「主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」しかし、神の義を満たす唯一のお方が来られました。第二のアダム、私たちと同じ人間仲間となって下さった主イエス・キリストです。この方の恵みに与る時、神は私たちを一方的に義として下さいます。そして、私たちはその恵みに応えて、神の御心に生き始めるのです。

第15編1節〜15節

2005年1月8日(土)
詩編を本当の意味で歌い得るのは主イエスお一人である、と言った人がいます。「主よ、どの様な人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか。」――私たちは、主イエスの死によって罪贖われ、神の幕屋に宿ることがゆるされるのです。

第16編1節〜11節

2005年1月9日(日)
合衆国長老教会の信仰問答はその問121で「祈りは私たちを神との交わりへともたらします」と教えています。また続く問122で「神はどの様にして、私たちの祈りに答えて下さるのでしょうか」と問いを立て、その答えの最後にこう述べています。「最終的には、神との交わりが、私たちの全ての祈りに対する答えの中の答えです。」――詩人は歌います。「あなたは私の主。あなたの他に私の幸いはありません」と。それは神との交わりに生きる幸いです。「主は私の思いを励まし、私の心を夜ごと諭して下さいます。私は絶えず主に相対しています。」そして、この神との交わりは、地上の生涯をもって終わるものではありません。「あなたは私の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えて下さいます。」――主イエスの十字架の死からの復活は<神との永遠の交わりへの復活>です。そして、主が復活させられたように、あなたも神との永遠の交わりへと復活させられるのです。その永遠の御光に包まれて、今日という一日を神との交わりに生きましょう。それが真の主日、主の御復活を記念する朝(あした)です。

第17編1節〜15節

2005年1月10日(月)
詩人は敵に包囲され、主の助けを希求します。「あなたに逆らう者が私を虐げ、貪欲な敵が私を包囲しています。彼らは自分の肥え太った心の虜となり、口々に傲慢なことを言います。私に攻め寄せ、私を包囲し、地に打ち倒そうと狙っています。」しかし詩人はその危機の真っ只中で<主が御自分の瞳のように自分を守って下さること>を信じているのです。ゼカリヤもまた預言しています。「 栄光によって私を遣わされた万軍の主が、あなたたちを略奪した国々にこう言われる。あなたたちに触れる者は、私の目の瞳に触れる者だ。」万軍の主が、今日一日、御自分の瞳のように、あなたを守り導いて下さいます。敵に取り囲まれる時も、主は「御もとに隠れる人には、豊かに食べ物をお与え下さ」るのです。

第18編1節〜51節

2005年1月11日(火)
サムエル記とほぼ同一の詩です。ダビデはここで「死の縄がからみつき、奈落の激流が私をおののかせ、陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けられている」と歌っています。それはサウルの殺意に追われる逃亡生活の恐怖と危難を示しています。しかし、危機が押し迫るその度毎に、彼は神に向かって叫ぶのです。すると、主はその御怒りを燃え上がらせて現臨され、ダビデを救出して下さいました。ダビデは歌います。「彼らが攻め寄せる災いの日、主は私の支えとなり、私を広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えて下さる」と。「悩みの日に私を呼べ、私はあなたを助け、あなたは私をあがめるであろう(口語訳)。」

第19編1節〜15節

2005年1月12日(水)
太陽が全地を遍く照らし出すように、天来の神の栄光は全地に及び、その御言葉は世界の果てに向かう。主の律法は完全で、死んでいた者の魂を生き返らせる。何が主の御心に適い、何が主に逆らうことなのか。主の律法は、無知な人に知恵を与え、心を喜ばせ、目に光を与える。――けれども詩人の心には、なお一つの畏れ、一つの願いが沸き起こった。「知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうか私を清めて下さい。あなたの僕を驕りから引き離し、支配されないようにして下さい。」私たちの知らずに犯した過ち、隠れた罪が神の御前に贖われるために主イエス・キリストは来られました。主は審き主であられるのに、自ら進んで裁かれる者となられました。このお方との交わりの中で、私たちは真に神の律法に生きることができます。主の謙遜の霊と御言葉を受けながら。

第20編1節〜10節

2005年1月13日(木)
私たちの主への供え物(献身)が主によって快く受け入れられ、私たちの心の願いと計らいが主の御旨に適うなら、主はそれをすべて実現して下さる、と歌われています。主イエスもまたこう言われました。「はっきり言っておく。あなたがたが私の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」主なる神様は、私たちの願い出を心から待ち望んでおられ、私たち人間の主体的応答を重んじて下さるのです。――今日一日、私たちの献身が主に受け入れられ、私たちの願いと計らいが主の御心に適うことを念じながら、主にある日常生活に就いて行きましょう。

第21編1節〜14節

2005年1月14日(金)
王を祝福し、王と共におられる主を、詩人は賛美しています。王は主の御力を喜び祝い、主は王の心の望みをかなえられます。主は王の命の日々を増し加えられ、永遠の祝福を与え、王にその御顔を向けられます。王は主に依り頼んでいるので、決して揺らぐことがありません。――ここで歌われている王とは一体誰でしょうか。それはダビデ自身であると言えるでしょう。しかしこの詩編が最もピタリと来るのは、あのお方、王の王なる主イエス・キリストです。私たちはこの主キリストのゆえに、神の僕でありつつ、この地上にあって王として立てられています。私たちは、御子キリストのゆえに、神の国を受け継ぐ王子とさせられているのです。御国の王子として、世にあって神と人とに仕えましょう。

第22編1節〜2節

2005年1月15日(土)
<十字架の詩編>と呼ばれる詩編です。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」私たちの罪故の滅亡をすべて引き受けて下さったメシアの叫びです。明日私たちは、このお方を勝利の主として仰ぎます。

第22編1節〜32節

2005年1月16日(日)
福音書は主イエスの十字架の出来事を<詩編22編の成就>として書き記しています。詩編「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。」福音書「『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である。」詩編「私を見る人は皆、私を嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。」福音書「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おやおや神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。』」詩編「私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」福音書「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。」
そして詩編は最後歌います。「私の魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう。」これは、十字架の救いを成し遂げて下さった主イエスの御言葉として聴くことができ、主の私たちに対する眼差しが浮かび上がってきます。私たちは主にあって神の民なのです。

第23編1節〜5節

2005年1月17日(月)
羊飼いは、羊を導き、青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴われます。羊飼いは、羊が死の陰の谷を行くとき、共にいて下さり、鞭と杖をもって命の道へと連れ戻して下さいます。羊飼いは、羊が苦難に直面する時にも、恵みの食卓を整えて下さり、頭に香油を注ぎ、喜びの杯を満ち溢れさせて下さるのです。――主イエスがあなたの羊飼いです。

第23編6節

2005年1月18日(火)
私たちの生活には「時間に追われる」ということがあります。「仕事に追われる」ということもあります。また人生には「悩み苦しみに追われる」ということがあります。けれども聖書は、実に不思議な<追われ>を語ります。「命ある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。」いつも神の恵みから離れて行ってしまう私たちを、いつも羊飼いの慈しみから離れて行ってしまう私たちを、恵みと慈しみがいつも追うのです。私たちの命のある限り。今日一日、「恵みと慈しみはいつも私を追う」と信じて、一歩一歩、歩みましょう。

第24編1節〜10節

2005年1月19日(水)
聖書は繰り返し「全地は主のもの」と語ります。「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。」実にスケールの大きな信仰告白ですが、「全地は主のもの、あなた自身の主のもの」なのです。――今私たちは、全ての者が主に服し、全地が主に返還されている様を見ていません。しかしそれは、キリストの福音に生きる兄弟姉妹の間で既に始まっています。そして最後主の栄光の全貌が顕わとなる時、土地も建物も、山も川も大地も、そして全宇宙、この私たち自身も、主のものとなるのです。――今日、栄光の主の来たらんことを待ち望みつつ、私たち自身と、あの方この方が、主の御元へと立ち返ることが出来るよう祈りましょう。「栄光に輝く王とは誰か。」死に勝利され、今天におられる我らの王イエスである!

第25編1節〜22節

2005年1月20日(木)
「主よ思い起こして下さい。あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。私の若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、私を御心に留めて下さい。」これは虫がよすぎる求めではないか、とも思われます。私の罪と背きは思い起こさず、憐れみと慈しみを思い起こして下さい、とは。けれども私たちは、窮地に立たされる時、こう祈り求めるより他ないのではないでしょうか。罪と背きの故に窮地に立たされ、あらゆる望みを失った所で、私たちは一体何にすがり、何に望みをつなげば良いのでしょうか。それは、主が誓って下さったとこしえの憐れみと慈しみを、主御自身に思い起こしていただくことです。罪と背きの私を赦し、命を与えて下さる、主のとこしえの憐れみと慈しみに寄りすがるのです。――この詩編25:6の祈りを私たち自身の祈りとしたいと思います。「主よ思い起こして下さい。あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。私の若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、私を御心に留めて下さい。」

第26編1節〜12節

2005年1月21日(金)
<世の中というのは清濁併せもって存在している>というのが私たちの常識的な考えです。そういう常識的感覚からすると、今朝の詩編は違和感を覚えさせるものです。これ程までに「完全な道」を歌うとは、という戸惑いです。しかし注目すべきは11節です。「私は完全な道を歩みます。私を憐れみ、贖って下さい。」詩人は「主が贖って下さる時に、完全な道を歩むことがゆるされる」と知っているのです。――今日一日、主イエスの完全な贖いに与った者として、神の御意志が地上になるように、一足一足歩みを進めましょう。

第27編1節〜4節

2005年1月22日(土)
「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命ある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」詩人は平安の中で願い求めているのではありません。敵が押し迫り、死の力に取り囲まれている只中で、主を仰ぎ望んで喜びを得たいと願い求めているのです。――主イエスの受難と復活が、神を仰ぎ望む喜びを私たちに打ち開いてくれました。私たちもまた、ただ一つのことを主に願い、それだけを求めたく思います。主を仰ぎ望んで喜びを得、教会で朝を迎えることを。

第27編5節〜14節

2005年1月23日(日)
詩人は今祈ります。自分の命をねらう者たちに取り囲まれながら。「主は私の光、私の救い、私は誰を恐れよう」と。しかし注目しましょう。彼が求める主の守りと救いは<具体的な場>を持っているのです。5節「仮庵にひそませ」「幕屋の奥深くに隠して下さる」6節「私は主の幕屋で・・」。それは昨日の聖書箇所4節の「主の家」や「宮」と同じく、主なる神を礼拝する場所です。詩人は、敵が押し迫る中で、主の礼拝所に逃れ行き、そこで主が御顔を向けて下さることを祈り求めているのです。――私たちも今日、様々な地上の戦いの中から教会へと逃れ行き、主の御顔を拝します。「主よ、私は御顔を尋ね求めます」と祈りつつ。そして、主が祈りに答えてその御顔を向けて下さる時、私たちは主の御救いの恵みに与るのです。「私は信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。」

第28編1節〜9節

2005年1月24日(月)
ある著名な神学者が次のような趣旨のことを述べています。「聖書が告げている救いは、単に個人の魂が救われることに留まらない。それは<神の民の救い>であり<神の国の完成>である」と。――詩人は、祈りの中で主に向き合い、「我と汝」の関係の中で主に救いを求めて叫んでいます。けれども、彼の祈りは同時に<神の民の救い>を求める祈りでもあるのです。「主は油注がれた者の力、その砦、救い。お救い下さい、あなたの民を。祝福して下さい、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養って下さい」と。――私たちもまた、神の民である兄弟姉妹のことを覚えて祈りましょう。小松教会の兄弟姉妹たち、近隣の諸教会の兄弟姉妹たち、日本全国の教会に連なる兄弟姉妹たち、祈りはその翼を広げ、地の果てにまで及びます。「とこしえに彼らを導き養って下さい」と祈りつつ。

第29編1節〜11節

2005年1月25日(火)
自然の驚異に神の御力を仰いで歌う詩編です。地中海に発生した雷雨が来襲し、レバノン杉を切り裂き、カデシュの荒れ野に雷鳴が轟きます。大地は見る見る洪水と化しますが、主はその洪水の上に御座を置かれます。すべてのものの上に主の御声が轟きわたっているのです。――終わりに詩人は祈ります。「どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように」と。――私たちも祈りましょう。自然の驚異を絶する主の御力が、神の民に臨むように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

第30編1節〜13節

2005年1月26日(水)
「平穏なときには、申しました。『私はとこしえに揺らぐことがない』と。」そうです。
私たちはキリストの福音の光に包み込まれる時、「私はとこしえに揺らぐことがない」と確信します。主が御旨によって、救いの砦の山に立たせて下さったからです。しかし私たちは、主イエスから離れ、自分だけで歩き始める時、揺らぎを感じずにはおられません。時に、自らの罪の力に圧倒され、神が御顔を隠されたと感じ、恐怖に陥ることさえあるのです。――「主よ、私はあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。・・主よ、耳を傾け、憐れんで下さい。主よ、私の助けとなって下さい。」主イエスへの祈りです。

第31編1節〜25節

2005年1月27日(木)
想像を絶する苦難です。詩人の体と魂は苦悩の故に衰え果て、罪故に力は失せ、親しい者たちにも見捨てられました。その上詩人は、狂気一歩手前とも取れるような脅えの中で、こう訴えています。「人の心は私を死者のように葬り去り、壊れた器と見なします。ひそかな声が周囲に聞こえ、脅かすものが取り囲んでいます。人々が私に対して陰謀をめぐらし、命を奪おうとたくらんでいます。」――しかし最後彼は、かつて絶体絶命の窮地にあった自分を救い出し、引き上げて下さった主の御業を思い起こして主をほめたたえます。「恐怖に襲われて、私は言いました。『御目の前から絶たれた』と。それでもなお、あなたに向かう私の叫びを、嘆き祈る私の声を、あなたは聞いて下さいました。」――十字架と復活の主イエスが共におられる故に、私たちには絶望はあり得なくなりました。なぜなら「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」と叫ばれた十字架の主こそは、神に全く見捨てられた地獄へと降られた方だからです。私たちが「自分は破滅してしまう」と思う時、「見よ、そこに主はいます」なのです。

第32編1節〜11節

2005年1月28日(金)
小松教会の礼拝では、この詩編32編を<罪の告白>として交読しています。「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。」これは、キリストの義の衣を着せ掛けられた者たちの喜びの歌です。神様は、キリストの義を心に信じて受け取った者を義として下さるのです。そして、神様の赦しがある故に「主に私の背きを告白しよう」との告白が生まれます。詩人は歌います。「そのとき、あなたは私の罪と過ちを赦してくださいました」と。――今日一日、キリストの義の衣を身にまとって歩みましょう。

第33編1節〜22節

2005年1月29日(土)
「主に従う人よ、主によって喜び歌え。」「主の御言葉は正しく、御業はすべて真実。」「全地は主を畏れ、世界に住むものは皆、主におののく。」「いかに幸いなことか、主を神とする国」「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。」「我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。」――明日、私たちがささげる礼拝を、先取りしている御言葉です。全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

第34編1節〜19節

2005年1月30日(日)
「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救って下さる。」悔いし砕けたる霊。それが詩人ダビデの霊です。――1千年の後に、使徒パウロもまた次のように述べます。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」それはダビデの歌に同じです。打ち砕かれた心、悲しみに深く打ち沈んでしまった心。しかし、神の御心に適った悲しみは悔い改めを生じさせ、そこに、打ち消されることのない救いに通じる道が備えられるのです。――私たちの悲しみを真実に知っていて下さる主イエスと共に、今日の一日(ひとひ)を歩みましょう。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」

第34編20節〜23節

2005年1月31日(月)
「主に従う人には幸いが重なる」とは書かれていません。「災いが重なるが」です。主が共にいて下さる人生は、災いなく幸いだけが続く人生ではないのです。むしろ、主に従う故に災いが重なることもあり得るのです。しかし「主はその全てから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守って下さる」と約束されています。――今日一日私たちにも災いがあるかも知れません。しかし、私たちの関心事は、主の御意志と一つになり生きていくことです。その時、主は必ず守って下さるのです。「主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、あなたを守って下さる」のです。

第35編1節〜28節

2005年2月1日(火)
「主よ、私と争う者と争い、私と戦う者と戦って下さい。」詩人は今、争いの中、戦いの中に置かれています。「命を奪おうとする者」がおり、その者らは「魂を滅ぼそうと落とし穴を掘り」、善意に悪意をもって押し寄せてきます。16節「神を無視する者が私を囲んで嘲笑い、私に向かって歯をむき出します。」――その危難の中から詩人は主に呼ばわります。「主よ、いつまで見ておられるのですか。彼らの謀る破滅から、私の魂を取り返して下さい。」「主よ、あなたは御覧になっています。沈黙なさらないで下さい。」そして最後詩人が願うことは、「あなたの正しさによって裁いて下さい」ということです。――今日一日の私たちの歩みの上に、主の正しさが行われますように。主の正しさは私たちの罪を明らかにする権能を持つとともに、慈しみと憐れみによる御支配です。詩人は歌います。「私の舌があなたの正しさを歌い、絶えることなくあなたを賛美しますように」と。

第36編1節〜13節

2005年2月2日(水)
「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、私たちは光を見る。」主イエスは言われました。「渇いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい」と。主の元には罪の赦しがあります。真の憩いがあります。癒しがあります。主よ、あなたの甘美な流れに渇きを癒します。

第37編1節〜40節

2005年2月3日(木)
「地を継ぐ」ことが主題として掲げられています(9,11,18,22,29,34節)。それは、終末に御国を継ぐことを予示すると共に、今置かれている具体的な生活の場を神に祝福された場として継ぐ、との約束でもあります。しかし、その生活の場の現実はどうでしょうか。「悪事を謀る者」がおり、「主に従う人に向かって、主に逆らう者はたくらみ、牙をむく」ということが起こっており、「主に逆らう者は待ち構えて、主に従う人を殺そうとする」のです。神の御支配など全く見えぬ現実がそこに横たわっています。しかしそのような中で、聖霊は詩人を励まし、次のように歌わせます。「この地に住み着き、信仰を糧とせよ。」「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。」「しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。」そして更にこう言われます。「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて下さる。」――今日、私たちに与えられた生活の場、その持ち場・立場を守り、主に信頼を置いて歩みましょう。たとえ、そこに、主に逆らう勢力が渦巻いていたとしても。なぜなら、私たちは主にあって「地を継ぐ」のであり、「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて下さる」のですから。

第38編1節〜23節

2005年2月4日(金)
小松教会の礼拝では、この詩編38編を<罪の告白>として交読しています。詩人は、自分が犯した罪の故に苦悩し、神の怒りの御手が彼を押さえつけています。体も魂も神の怒りに打たれ、「もう立てないほど打ち砕かれ、心は呻き、うなり声をあげるだけです。」「心は動転し、力は私を見捨て、目の光もまた、去りました」と詩人は告白します。内側には自分の犯した罪故の責め苦があり、外側には「命をねらう者は罠を仕掛け」、愛する者にも友にも見捨てられました。その恐るべき暗闇の淵より、詩人はなお声をあげます。「主よ、私はなお、あなたを待ち望みます。私の主よ、私の神よ、御自身で私に答えて下さい。」そして最後の祈りをささげます。「主よ、私を見捨てないで下さい。私の神よ、遠く離れないで下さい。私の救い、私の主よ、すぐに私を助けて下さい。」――この詩人の叫びに主は答えて下さいました。それが、万人の救い主、十字架の主イエス・キリストです。

第39編1節〜24節

2005年2月5日(土)
罪の力に抗しようと口を噤むが、心は内に熱し、呻いて火と燃え上がりました。人の生涯の儚さ、罪の責め苦、もう世を去ろうとしている自分。「主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。私はあなたを待ち望みます。」明日、その主が来られます。

第40編1節〜12節

2005年2月6日(日)
聖霊がみ言を持って私たちに臨まれる時、次の事が起こります。「主は耳を傾けて、叫びを聞いて下さった。滅びの穴、泥沼から私を引き上げ、私の足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、私の口に新しい歌を、私たちの神への賛美を授けて下さった。」そして詩人は更に、聖霊の御業がどこに集中するかを語ります。「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も、罪の代償の供え物も求めず、ただ、私の耳を開いて下さいました。」神のみ言が語られ、聴かれる。それは私たち人間の成し得ることではありません。聖霊だけが成し得る神の奇跡です。それは何時も、私たちの<聖霊のお働きを妨害しようとする罪>によって危険に晒されていますが、聖霊は、そのような頑なな私たちの心を打ち砕き、神の恵みを深く味わわせることがお出来なのです。罪深い私たちに、神の恵みを知らしめて下さった聖霊に感謝しつつ、今週の歩みを造っていきましょう。

第40編13節〜18節

2005年2月7日(月)
新しい週を歩み出した私たちにも、即座に罪の縄目が絡み付いてきます。「悪は私にからみつき、数えきれません。私は自分の罪に捕らえられ、何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く、私は心挫けています。」なぜこの様なことになるのか。それは自分の内に罪が働き、外には神から私を引き離そうとする者が実在するからです。そこで、詩人は祈らずにおれないのです。「主よ、走り寄って私を救って下さい。主よ、急いで私を助けて下さい。」「主よ、私は貧しく身を屈めています。私のためにお計らい下さい。」私たちは日常の悩みの中で、様々な人や物に助けを求めます。しかし、私たちの本当の助けは主のもとにあります。主の御許に逃れ、静まって祈りつつ、み言を待ちましょう。

第41編1節〜14節

2005年2月8日(火)
世の無常と罪の悲惨を思わずにおれません。「敵は私を苦しめようとして言います。『早く死んでその名も消えうせるがよい。』見舞いに来れば、むなしいことを言いますが、心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。・・私の信頼していた仲間、私のパンを食べる者が、威張って私を足げにします。」私たちは「ここまで酷い事は滅多にない」と思うかも知れません。しかし聖書は、私たち人間の内にある罪の悲惨をあからさまに語るのです。――独り子なる神は、この人間の悲惨の餌食となることを引き受けられました。その様にして主は、私たちの罪を贖って下さいました。その主があなたと共におられます。

第42編1節〜12節

2005年2月9日(水)
高齢の姉妹が入院先の床でこう言いました。「教会へ行って神様を礼拝したい。」詩人は歌います。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。」神の御前に出る機会に恵まれない詩人は、かつて主の礼拝に与った日のことを思い起こします。「私は魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを。なぜうなだれるのか、私の魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。」そして呻きの中で祈る詩人は「御顔こそ、私の救い」と繰り返すのです。「御顔こそ、私の救い!」そうです。神様がその御顔を私に向けて下さるなら、それがすべてなのです。どんなに周囲の敵が多くとも、どんなに私の罪が深刻であったとしても、神の御顔が私たちの救いなのです。主の御顔を求めて祈りましょう。そして礼拝へと足を運ぶことができるよう、互いに、執り成しの祈りをささげましょう。

第43編1節〜5節

2005年2月10日(木)
あなたは「神よ、あなたの裁きを望みます」と祈ったことがあるでしょうか。私自身は、ここまで率直に神の裁きを求めたことは無いように思います。恐らく私たちは、神の裁きについては否定的で恐ろしいイメージだけを持っているのかも知れません。けれども、ここに歌う信仰の先達は、神の裁きを真っ直ぐに祈り求めるのです。それは、神の裁きがただ正しさをもって私たちを切り刻むものではなく、恵みと真に満ちた裁きだからです。神の裁きは、罪ある古い私を撃ち、これを死なしめ、神と共に生きる新しい私を創造する<神の救いの御業>なのです。――私たちは神に裁かれる時、ただ恐怖だけを覚えます。しかし、そこでこそ、十字架の主が共に居ますのです。神は、私たちを滅ぼす目的で怒りを表されるのでなく、私たちを真に生かすために、愛の怒りを発せられる時があるのです。その神の愛を、私たちは十字架の主イエスを仰ぎ、確かに信じることが出来るのです。

第44編1節〜27節

2005年2月11日(金)
かつて約束の地を獲得したのは、民の力によってではなく、神の御腕の勝利でした。その神の御業を詩人は思い起こし、「私が拠り頼むのは自分の弓ではない、あなたです。」と主に呼ばわります。しかし、そのように祈る彼と神の民は、今なお依然として敵の支配下にあるのです。信仰の節操を貫き、契約の民として生きるも、引き続く敵の支配に苦しめられているのです。――「御国(神のご支配)がこの家庭に、この職場に、この学校に、この地域社会に来ますように。」主イエスと共に、粘り強く祈って行きましょう。

第45編1節〜3節

2005年2月12日(土)
心に湧き出る美しい言葉、私の作る詩を、王キリストの前で歌おう。あなたは人の子らの誰よりも美しく、あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。

第45編4節〜18節

2005年2月13日(日)
主の十字架の血によって罪赦され、永遠の命の約束をいただいた私たちは、神に従うことを愛する者たちとされています。それは、神様が「私はこうしたいと思っている」と言われる願いを、私たち自身の願いとして生きることです。そして神に従う時、私たちは、必ず誘惑に逢い、自分との闘いが生じ、迫害が迫り、多くの犠牲を払うことになります。しかし、そこには、真の喜びがあるのです。「神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに、神、あなたの神は油を注がれた。喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。」

第46編1節〜12節

2005年2月14日(月)
「神は私たちの避けどころ、私たちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる。」今日、あなたに酷い言葉を浴びせかけてくる人がいるかも知れません。挑戦的な態度を示す人があるかも知れません。また、あなた自身が酷い言葉を人に放ったり、挑戦的な態度に出てしまうかも知れません。聖書は語ります。そういう私たちの放つ弓が主を刺し貫いたのだ、と。そして主は、同時に、救いの盾ともなって下さった、と。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らのその身に私たちの罪を担って下さいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」――「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。『力を捨てよ、知れ、私は神。国々にあがめられ、この地であがめられる。』」

第47編1節〜10節

2005年2月15日(火)
「神は、全地の王!」神は、教会の王であられると共に全世界の王であられます。日本の王、アメリカの王、中国の王、アフリカの王、全地の王です。「主はいと高き神、畏るべき方、全地に君臨される偉大な王。」しかし、私たちは知っています。全地に君臨される偉大な王は、あの十字架におかかりになった方である、と。私たちの王は、人を威圧し、軍隊を率い、剣や鎧で身を固めた方ではありません。子ロバに跨り、田舎の猟師たちを率いられた王です。そしてこの方は、人間の罪に勝利する<唯一の細い道>を歩み通されました。それが、十字架の苦難と死、復活と昇天の道です。――私たちのために、苦しみ抜いて下さった十字架と復活の主に、勝利の冠をささげましょう。「歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。」「諸国の民から自由な人々が集められ、アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。」

第48編1節〜15節

2005年2月16日(水)
「神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている。」十字架の主は、私たち罪人が神の御前に赦されるためだけに、苦しまれたのではありません。神の正しき裁きが成し遂げられるためにも、主は苦しみを受けられたのです。主の十字架は一方で、神の正しさを打ち立てつつ、他方で、罪ある人間を赦す救いの御業です。その神の正しき裁きである主の十字架によって、私たちは赦され、神と共に生きる永遠の命を与えられました。「あなたの裁きのゆえに、シオンの山は喜び祝い、ユダのおとめらは喜び踊る。」「この神は世々限りなく私たちの神、死を超えて、私たちを導いて行かれる。」

第49編1節〜13節

2005年2月17日(木)
聖書が語る知恵と英知、それは「神の前にあって人間は徹底的に無力である」ということです。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。・・魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。」「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。・・知恵ある者も死に、無知な者、愚かな者と共に滅び、財宝を他人に遺さねばならない。」
今日、悪意を持ってあなたを追う者があるかも知れません。しかし「どうして恐れることがあろうか!」です。その人も、神の御前にあって徹底的に無力な一人の罪人なのです。「諸国の民よ、これを聞け。この世に住む者は皆、耳を傾けよ。」

第49編14節〜21節

2005年2月18日(金)
自分の力に頼る者の道、その行く末は何処なのでしょうか。詩編は<死の暗黒に閉ざされた不気味な世界>を描き出します。「陰府に置かれた羊の群れ、死が彼らを飼う。朝になれば正しい人がその上を踏んで行き、誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。」人間は神の御前にあって徹底的に無力です。死の力に閉じ込められている存在です。誰がこの陰府の力から私を解き放ってくれるでしょう。誰が死に打ち勝つ命の力を持っているというのでしょう。詩編は歌います。「しかし、神は私の魂を贖い、陰府の手から取り上げて下さる。」独り子なる神は、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人の中から甦られました。この方が、あなたの魂を陰府の手から取り上げて下さるのです。

第50編1節〜7節

2005年2月19日(土)
「神は御自分の民を裁くために、上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。『私の前に集めよ、私の慈しみに生きる者を。いけにえを供えて私と契約を結んだ者を。』天は神の正しいことを告げ知らせる。神は御自ら裁きを行われる。」――明日、神様は、神の慈しみに生きる私たちを御前に集められます。私たち神の民を裁くために。神の真実な裁きは私たちを救います。神の裁き無き人間の自由な世界こそ滅びだからです。主は私たちを裁かれます。主の真の救いを与えるために。

第50編8節〜23節

2005年2月27日(日)
「告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。」悔いし砕けたる魂の告白。それこそが、神が切望される献げものです。神を忘れた頑なな魂に、神御自身が語りかけられます。「どういうつもりか。お前は私の諭しを憎み、私の言葉を捨てて顧みないではないか。盗人と見ればこれにくみし、姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ、欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり、同じ母の子を中傷する。お前はこのようなことをしている。私が黙していると思うのか。」神の剣の御言葉が私たちの罪を告発し、私たちを打ち砕きます。――しかし主なる神様は、悔いし砕けたる魂を侮られません。その魂が御名を叫び求めること、それを最上の献げ物として主は待っておられるのです。「告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、私を呼ぶがよい。苦難の日、私はお前を救おう。そのことによって、お前は私の栄光を輝かすであろう。」主は、あなたの、悔いし砕けたる魂を待っておられます。

第51編1節〜21節

2005年2月28日(月)
小松教会の公的神礼拝において交読されている詩編です。「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」とあります。ダビデは預言者によって罪が指摘され、「その死罪に当たる男はあなただ」と断言されました。ダビデは完膚無きまで打ち砕かれ、「私は主に罪を犯した」と告白し、この詩編を歌いました。――今日一日この詩を告白しつつ歩みましょう。特に12節〜14節を。「神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないで下さい。御救いの喜びを再び私に味わわせ、自由の霊によって支えて下さい。」

第52編1節〜11節

2005年3月1日(火)
私たちもかつて「神を力と頼まず、自分の莫大な富(自分の知恵や力)に依り頼み、自分を滅ぼすものを力と頼んでい」ました。そのような私たちを主は憐れんで下さり、教会へと招き入れ、神の子として下さいました。私たちがそれに値したからではなく、ただ主キリストの功績の故に、です。それ故、私たちは主に心からの感謝をささげ、今も後も歌います。「私は生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。あなたが計らって下さいますから、とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます。あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い、あなたの御名に。」

第53編1節〜7節

2005年3月2日(水)
「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」パウロはこの御言葉を引用して「全人類は神の怒りの下に置かれている」と告知しました。主は天から私たち一人一人を見渡し、探されますが、そこに目覚めた人を見出すことができません。神が愛して創造した人間であるのに、その愛に応答する者がいないのです。詩編は歌います。「あなたに対して陣を敷いた者の骨を、神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。」しかし十字架の福音はこう語ります。「神に従順であったこの方の骨を、神はまき散らされた。神は彼を退けられ、罪人たちは彼を辱めた」と。ここでも「真実に詩編を歌い得るのはただ主イエスお一人である」との真理が妥当しています。――私たちは今日、十字架と復活の主に対して眼差しを上げたいと思います。聖霊が照らし出してくださる光に照らされて、今、活ける主を仰ぎましょう。そして今日一日、このお方と共に、このお方の御言葉に聴き従って、歩みましょう。

第54編1節〜9節

2005年3月3日(木)
今日、暴虐な人が、あなたの命を突き崩すようにして挑みかかってくるかも知れません。誹謗中傷をもって。棘のある言葉、殺意の混じった唾をもって。神が目前におられることを知らぬがゆえに。――主イエスは、神を無視して歩んでいた私たちを執り成して、私たちの罵詈雑言をその体と魂に受けられました。「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」――今日、主があなたと共におられます。あなたのことをすべて知っておられる主です。その罪も、その苦しみも悲しみも。それで、私たちは神に向かって力強く告白することができます。「見よ、神は私を助けて下さる。主は私の魂を支えて下さる。・・主は苦難から常に救い出して下さいます。私の目が敵を支配しますように。」

第55編1節〜24節

2005年3月4日(金)
底知れぬ不安と死の恐怖、襲いかかる敵の真っ只中で詩人は歌います。「死に襲われるがよい。生きながら陰府に下ればよい。住まいに、胸に、悪意を蓄えている者は。私は神を呼ぶ。主は私を救って下さる。」何と過激で慎みを知らぬ祈り!と驚くには及ばないと思います。それ程に凄まじい危機の中にいるのです。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えて下さる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らって下さる。」

第56編1節〜14節

2005年3月5日(土)
「あなたは死から私の魂を救い、突き落とされようとした私の足を救い、命の光の中に、神の御前を歩ませて下さいます。」明日、私たちは、この主の救いに与ります。

第57編1節〜12節

2005年3月13日(日)
必死の逃亡を続けるダビデ。今彼は洞窟の中に身を潜めます。しかしいつ何時、追っ手が襲い掛かってくるか分かりません。「私の魂は獅子の中に、火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように、舌は剣のように、鋭いのです。」しかしダビデは、その不安と恐れに満ちた魂をもって「いと高き神を呼びます。」「天から遣わして下さい。神よ、遣わして下さい、慈しみとまことを。私を踏みにじる者の嘲りから、私を救って下さい。」――千年の後、ヨハネは語ります。「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」今日私たちは、不安と恐れに満ちた魂をもってこのお方を拝します。父なる神が天から遣わして下さったこのお方を。恵みと真理とに満ちたこのお方を。

第58編1節〜12節

2005年3月14日(月)
神様は不正を大目に見られるような方ではありません。神は不正を徹底的に嫌い、これを裁かれます。私たちが神に向かって「私たちは正しく語り、公平な裁きを行っています」と言う時、神は言われます。「いや、お前たちはこの地で、不正に満ちた心をもってふるまい、お前たちの手は不法を量り売りしている」と。――本日の詩編を通して、神がどれほど公正な義を愛しておられ、不正・不法・欺きを憎んでおられるかが分かります。確かに、不正・不法・欺きに生きる者は恐るべき神の報復に遭って当然なのです。しかし御子キリストをお遣わし下さった「いと高き神」は、誰一人予想だにしなかった救いの御業を遂行なさいました。それは、裁き主なる神御自身が裁かれる者となられたことです。不正を徹底的に嫌い、これを裁かれる神御自身が、自ら不正を担い、徹底的に裁かれる者となられたのです。十字架の主イエス・キリスト。このお方に、神の義と赦しが輝いています。

第59編1節〜18節

2005年3月15日(火)
聖書は私たち人間の口から出る言葉を重大視しており、その破壊力を軽視していません。「ご覧ください、彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう。」「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に、自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に、彼らが捕らえられますように。」――今日、私たちはどんな言葉を口にするのでしょうか。人を突き刺す剣の言葉でしょうか。人を生かす言葉でしょうか。新約は語ります。「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」主よ、快い言葉を今日私たちに与えてください。

第60編1節〜14節

2005年3月16日(水)
主なる神は私たちを突き放されることがあります。キリスト者であれば常に神に抱かれ守られている、ということはありません。教会もまた神に突き放されることがあり得ます。「神よ、あなたは我らを突き放し、怒って我らを散らされた。」「あなたは御自分の民に辛苦を思い知らせ、よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた。」――なぜ神様は神の民を突き放し、これを裁かれるのか。6節によれば<辛苦をなめたその裁きの経験を、神を畏れる人に対して警告とし、その警告を受け入れさせるためであった>というのです。時に、神は私たちを裁かれます。突き放されます。しかし、そこで私たちは、神の裁きを身に受けつつ、「これは永遠の滅びへの破滅でない」と信じることがゆるされるのです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた主イエスを知っているからです。主は永遠の破滅としての死を死なれました。それは、神の裁きの真っ只中にあって私たちを救い出すためだったのです。

第61編1節〜9節

2005年3月17日(木)
ルターは「キリスト者とは僕の中の僕であると同時に王の中の王である」と教えました。キリスト者は神を仰ぎ、すべての人に仕える僕の中の僕です。と同時に、神の御子の兄弟姉妹とされ、何者にも隷属しない王の中の王でもあるのです。――しかしこの王は日々、神の御国を攻撃し脅かすあらゆる敵の攻撃を経験しています。そして、そのような時、この王は自分自身の王宮に立て篭もるのではありません。神の幕屋に宿り、神の翼を避けどころとするのです。「あなたは常に私の避けどころ、敵に対する力強い塔となって下さいます。あなたの幕屋に私はとこしえに宿り、あなたの翼を避けどころとして隠れます。」今日、あなたに攻撃の迫る時、神の翼の元に非難し、この御言葉を胸に味わいましょう。

第62編1節〜13節

2005年3月18日(金)
聖書は人間の悲惨を直視し、その邪悪と欺瞞を見抜いてこう語ります。「人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして、口先で祝福し、腹の底で呪う。」今日一日の歩みの中で、あなたはこの邪悪と欺瞞の一端に出会うかもしれません。その時、今朝の御言葉を思い起こしましょう。6〜7節「私の魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、私は希望をおいている。神は私の岩、私の救い、砦の塔。私は動揺しない。」

第63編1節〜12節

2005年3月19日(土)
朝「私はあなたを捜し求め、私の魂はあなたを渇き求めます。・・今、私は聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。・・私の魂は満ち足りました。乳と髄のもてなしを受けたように。私の唇は喜びの歌をうたい、私の口は賛美の声をあげます。」そして夜「床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」

(C)日本聖書協会


永らくご愛読いただきました「聖書通読運動」ですが、しばらくお休みすることになりました。また再開できますようにお祈りください。