エズラ記


第1章1節〜11節(ペルシアの王キュロスの布告)

2004年9月27日(月)
「主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシャの王キュロスの心を動かされた。」何と言うことでしょうか。見えざる神の御手は今、ペルシャの王に伸ばされ、その心を動かされました。そしてそれは、かつてエレミヤの口を通して約束されたことを成就するためだというのです。――主なる神様は、キリスト者だけに働きかけておられるのではありません。必要なら、世の高位高官をも主は用い給うのです。――もし全能の神が味方なら、私たちは何を恐れることがあるでしょうか。私たちは主以外の何者をも恐れる必要はないのです。ただ私たちの為すべきことは一つです。それは、主の御意志がこの地上に行われるよう、この身この魂を主に用いていただくことだけです。

第2章1節〜70節(帰還した捕囚の民)

2004年9月28日(火)
バビロン捕囚から帰還した民。氏族や出身地に従ってその数が確認されます。それは正に囚われの身から解放された神の民による<自由の行進>です。――主イエス・キリストは十字架への苦難とその死によって、私たちに真の自由を与えてくださいました。それは、サタンの圧制からの自由、罪と死の力からの解放、神を父とお呼びすることのできる真の自由です。私たちは、主イエスのゆえに、神の元へと立ち返った神の子たちです。神様が所持しておられる帰還者名簿の中に、あなたの名が確かに刻み込まれているのです。

第3章1節〜13節(礼拝の開始・神殿の基礎)

2004年9月29日(水)
「昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き」とは何故でしょうか。彼らは、およそ50年前、その若き日に栄光のソロモン神殿を見たことのある人々です。その彼らが今、神殿再建の業に着手したのを目の当たりにして、声をあげて泣かずにおれないのです。この彼らの涙は「神殿が再建されて嬉しい」といった単純なものではないと思います。自分たちは何ゆえにバビロンへと連れて行かれたのか。主の神殿は、あの時なぜ崩壊してしまったのか。そして今、自分たちは何ゆえに、もう一度本国に帰って来ることができたのか。そこに彼らは、主の御言葉に聴き従おうとしなかった自らの頑なさを思い起こしたに違いありません。主の恐るべき裁きを振り返ったのだと思います。そして、そのような自分たちに対して、主なる神が、今大いなる憐れみをもって臨んでおられることを実感したのではないでしょうか。――日本基督教団の再建と日本伝道の進展とを共に祈りましょう。近隣にある諸教会と小松教会のことを祈りに覚え、共に教会に仕えましょう。そして、老祭司たちが大声をあげて流した涙の意味を、私たちもまた深く味わい知りたいと願います。

第4章1節〜24節(工事の中断・アルタクセルクセス王への書簡・アルタクセルクセス王の返事)

2004年9月30日(木)
神殿再建を阻もうとする執拗な力が働き続けます。隣国のサマリア人がやってきて「建築を手伝わせてください」と申し出ました。けれども、イスラエルの家長たちはこの申し出を断りました。サマリア人とは同じ信仰に立ってはおらず、神殿再建を主から委託されたのは「あなたたちではなく、私たち」であると信じたからです。――そして、この協力的な姿を装った誘惑の後には、この世の権力を利用した妨害が彼らを悩ませたのです。――主から教会に託されている事業の全ては、神の栄光がこの地上に現れるためのものです。その事を忘れて事業そのものの成功に走る時、<大成功における大失敗>が起こります。今日一日、私たちのすべての業が、主の栄光に仕えるものでありますように。

第5章1節〜17節(神殿の工事の再開・ダレイオス王への書簡)

2004年10月1日(金)
神殿再建事業は15年間中断されていました。その時ハガイが預言します。「万軍の主はこう言われる。この民は『まだ、主の神殿を再建する時は来ていない』と言っている。・・今、お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。」人々は神殿を廃墟にしたまま、自分たちの住まいを形作ったというのです。――「神の家を蔑ろにして家庭形成なし」です。「まず、主の宮を再建せよ。」

第6章1節〜12節(ダレイオス王の返事)

2004年10月2日(土)
何という有難い勅令!神殿再建は確かにクロス王の意であり、ダレイオス王もこれに従います。しかし、これらすべては神の御意志から出たこと。くすしきかな、神の御業は!

第6章13節〜22節(神殿の完成)

2004年10月3日(日)
面白い御言葉です。「ユダの長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言に促されて順調に建築を進めていたが、イスラエルの神の命令と、ペルシアの王キュロス、ダレイオス、アルタクセルクセスの命令によって建築を完了した。」これは<神の言われること>と<この世の権力者の言うこと>を半分半分に聞き入れた、ということではないと思います。主のご命令が、この世の権力者をも包み込む仕方でイスラエルに来ている、ということではないでしょうか。なぜなら、エズラ記全体には次の御言葉が鳴り響いているからです。「主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた(1:1)。」更に本日の22節にこうあります。「主がアッシリアの王の心を彼らに向け、イスラエルの神の神殿を再建する工事を支援させて、彼らに喜びを与えられたからである。」神殿再建の業は神の御意思によることです。けれども、その神の御意思は単に「我が民に礼拝所を与えよう」というものではありません。かつて御自分の御言葉に対してどこまでも心頑なであり続けたイスラエルの民を、裁きのバビロン捕囚から取れ戻し、今や主は彼らに喜びを与えようとしておられるのです。主の恵みの迫りです。――主なる神様が私たちを赦し、恵みを与えようとご決断されたなら、預言者を遣わし、この世の権力者を用いてでも、御自分の恵みの御業を成し遂げて下さるのです。

第7章1節〜10節(エズラの帰還)

2004年10月4日(月)
エズラの先祖の名前には私たちをワクワクさせる名前が複数あります。ヒルキヤ、彼はヨシヤ王の宗教改革を助けた人物です。ツァドク、彼は亡命中のダビデを支えた人物です。そして、最初の祭司アロンの名があります(その他の名前も他の聖書箇所に見出される!)。聖霊が、神の民イスラエルのために、どれほど長きにわたって奉仕者を立て続けてきて下さったかを思わずにおれません。そして今エズラは、イスラエルの人々、祭司、レビ人、詠唱者、門衛、神殿の使用人らと共に、捕囚地バビロンから都エルサレムへと帰還していくのです。――本国に帰還したエズラは何に打ち込んだか。「エズラは主の律法(聖書)を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。」これもまた、聖霊がエズラを励まし、導いておられることです。――今も、主の民と共に聖霊は生きて働いておられます。神の御国へと急ぐ神の民を慰め、励まし、支え導きながら。

第7章11節〜28節(エズラの帰還)

2004年10月5日(火)
何という熱心でしょう。アルタクセルクセスはイスラエルの人々以上に神殿礼拝に対する熱心を示します。祭司、レビ人はエルサレムに帰還せよ。神の律法に従って全てを行え。神への献げ物を忘れぬよう。その他、神殿に必要なもの一切は国庫負担としてよい。しかし注目しましょう。この熱心の源は「王とその子孫の国に怒りが下らないように、天にいます神の命令であれば、・・」なのです。アルタクセルクセスは神を怒らせないように、恐る恐る神殿礼拝に関する勅令を出しているのです。彼はエズラのように「わが神なる主」とは言えないのです。――天にいます神は、主イエスのゆえに、私たちの父となってくださいました。私たちは「アッバ、父よ」と呼びかけつつ、わが神を礼拝するのです。

第8章1節〜36節(バビロンから上って来た人々・レビ人の勧誘・旅の初めの祈り・神殿の祭具を寄託・エルサレムに到着)

2004年10月6日(水)
当時の長旅は危険極まりないものでした。バビロニアからエルサレムまでには、自然の脅威、盗賊の出現、延々と続く荒野がありました。しかしエズラは、歩兵や騎兵を王に依頼することなく、自分たちだけで出発するのでした。――本章には「神の御手」が三度出てきます。「慈しみ深い神の御手が私たちを助けて下さり」「私たちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ」「道中待ち伏せる敵の攻撃も、神の御手に守られて」。今日一日、私たちも神の御手に守られて、御国の完成へと向かって急ぐのです。

第9章1節〜15節(異民族の娘との結婚・エズラの祈り)

2004年10月7日(木)
このエズラの祈りの言葉を心に焼き付けるようにして二度三度朗読してみましょう。かつてエジプト脱出の救いに与ったイスラエルが早々に金の子牛を鋳造したように、主の御恩を忘れ、自分のやりたいように走っていく様は、私たち自身のものでもあります。祈るエズラの傍らに跪き、彼と共に主の赦しを乞い求めて祈りましょう。十字架の主の御前で。

第10章1節〜17節(異民族の妻子との絶縁)

2004年10月8日(金)
厳禁されていた雑婚の道へと走ったイスラエルの罪。その罪を嘆き、主の御前に恐れ泣き伏すエズラ。彼は民の只中にあって、懺悔の祈りを捧げ、主の赦しを叫び求めるのです。主イエスはかつて、罪のエルサレムを御覧になり、深く涙されたことがあります。主の最後の日々、エルサレムに近づき、都が見えた時のことです。神との平和を知らないエルサレムを御覧になり、主は深く涙されたのでした。――どうして私たちはなお、罪の中に留まっていることができましょう。神との永遠の平和は主にあって既に成っているのです。

第10章18節〜44節(異民族の妻子との絶縁)

2004年10月9日(土)
主の大いなる御恩を忘れ、主に対して罪を犯した者たちのリストです。聖書は、自分たちの罪を忘れまいとして、ここにその名を刻み込むのです。――私たちの罪の赦しは、私たちの罪が水に流されることではありません。主イエスによって、私たちは罪のリストから永遠の命のリストへと贖われたのです。主イエスの値の付けようのない犠牲の上に立って、私たちは明日、主なる神の御前に出ることがゆるされているのです。


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