歴代誌下


第1章1節〜17節(ソロモンの知恵と富)

2004年8月5日(木)
ある夜、主はソロモンに「何事でも願いがよい。あなたに与えよう」と言われました。するとソロモンは「今この私に知恵と識見を授け、この民をよく導くことができるようにしてください」と応えました。――このソロモンの祈りを私たち自身の祈りとしましょう。「今この私に知恵と識見を授け、この家庭をよく導くことができるようにしてください。この職場を、この学校を、この社会を、この国を、この世界を、よく導くことができるようにしてください。」天の父よ、あなたの御国(御支配)がこの地上に来ますように。

第1章18節〜第2章17節(神殿の建築)

2004年8月6日(金)
新王ソロモンは、ティルスの王フラムに使節を遣わし、神殿建設の意図を伝え、材木の輸入と専門技術者の派遣を依頼しました。これに対しフラムは、丁寧かつ好意的な応諾をもって返答してきました。私たちは、このフラムの好意的応諾を単なる偶然として片付けることはできません。聖霊が働いておられるのです。前王ダビデに、神殿建設プランをお示しになった聖霊は、今も生きて働いておられ、計画実現へと導いておられるのです。――聖霊は人間の現実的なやり取りの只中に臨んでおられます。この呼びかけに対して、相手はどう応えてくるか。その具体的やり取りの只中に、聖霊の臨在があるのです。そこで、ある人は言いました。<神様が共におられることを信じること>と<聖霊の臨在を意識すること>との間には天地の差がある!と。今日一日、聖霊の臨在を意識しつつ、日常的な場面に臨みましょう。その時、私たちは、神のドラマを見ることになるでしょう。

第3章1節(神殿の建築)

2004年8月6日(土)
どこに神殿を建設すべきか。ソロモンは自分でそれを定めたわけではありません。父ダビデが主の裁きと救いを経験した所。かつてアブラハムが息子イサクを奉献した所。そこに神の礼拝所を築くのです。――明日、私たちは主の十字架が立つ所で、神を礼拝します。

第3章1節〜17節(神殿の建築)

2004年8月7日(日)
「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた(1節)。」ソロモンは自分の意思でこの業を開始したのではありません。聖霊が父ダビデに建築プランを与え、ソロモンはそれを受け継ぎ、ここにその業を開始するのです。――生前父ダビデはこう語っていました。「勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない。私の神、神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである。」――あなたが今取り組んでおられる事、今から取り組もうとしておられる事は何でしょうか。たとえそれがどんな事であったとしても、聖霊から出ている事かどうかが決定的です。私たちにはそれとすぐに分からない場合がほとんどですが「これは聖霊から出ていることか」と尋ね求めることが大切です。そしてそれが聖霊から出ているなら「勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない!」なのです。

第4章1節〜第5章1節(神殿の建築)

2004年8月8日(月)
祭壇建設の業を推し進めておられるのは、ソロモンと共にいましたもう聖霊です。職人の頭フラムが造作に携わっているのは偶然のことではありません。ティルスの王フラムがソロモンの要請に応じてこの人物を送ってきてくれました。その人材派遣の実現にも聖霊が関与しておられるのです。正に故ダビデが告げていた通りです。「私の神、神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである。・・何事を果たすにも、あなたにはあらゆる奉仕に関して知恵のある献身的な働き手がすっかりそろっており、長たる者をはじめ民もすべてあなたのあらゆる命令に従おうとしている。」――主がその御業を為そうとご決断しておられるなら、あらゆるものが備え与えられます。人材も、材料も、そしてそれをやり遂げる意思までも。今あなたには、どのような役割が与えられていますか。それは、やり遂げるに困難なことでしょうか。しかしそれが主の御心ならば、すべては備え与えられます。「何事を果たすにも、・・すべてはすっかりそろっている!」アーメン。

第5章2節〜14節(契約の箱の安置とソロモンの祈り)

2004年8月9日(火)
ある指揮者は言いました。芸術がその究極に達したとき、そこに何が起こるのか。それは“沈黙”である、と。芸術の究極は“沈黙”である!正に名言です。――本日の聖書は語っています。「その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。」雲の出現、即ち主のご臨在に触れる時、私たち人間は聖なる沈黙を体験させられるのです。人間の行動が止んでしまう瞬間。主の臨在は沈黙! 主日礼拝とはその様な場です。また、主の御前における祈りとはその様な時を過ごすことでしょう。しかしそれはただ押し黙ることではありません。主は御言葉を語り、私たちは聖なる喜びに満たされます。そこに起こる“沈黙”は、生きる真の力、私たちの命の源です。

第6章1節〜11節(契約の箱の安置とソロモンの祈り)

2004年8月10日(水)
「主は約束なさったことを実現された(10節)。」これは、信仰的美辞麗句ではありません。ここに神殿建立が成ったのは、正に主の約束の実現です。ダビデは「主のために神殿を」と心掛けていましたが、それを実現することはありませんでした。しかし、そのダビデの立派な心掛けをソロモンが受け継ぎ、ここに神殿建立が実現したのです。そしてその全行程、人間たちのやり取り一コマ一コマに聖霊が臨んでいて下さいました。聖霊が伴いたもう中で、この業は成ったのです。――「主は約束なさったことを実現された!」自分が為そうとする計画を主にご相談申し上げ、祈りの中で主と共に生きる時、私たちはこの素晴らしい一句を実体験するのです。この地上と人生は、主が働きたもう劇場なのですから。

第6章12節〜17節(契約の箱の安置とソロモンの祈り)

2004年8月11日(木)
ここに捧げられるソロモンの祈りは、私たち日本の教会の、そしてキリスト教関連諸施設全体の祈りです。それは“罪の赦しの懇願”ですが、この祈りはダビデに与えられた主の約束に基づいています。即ち「主よ、あなたがダビデにお与え下さった約束を絶やすことなく、今後も守り続けてください」との祈りなのです。――日本のキリスト教界は、明治期の宣教師たちの遺産の上に成り立っているところがあります。今私たちは、その先人の遺産を食い潰してはいないか。先達に続く、献身的な信仰が失われてはいないか。主の御前に振り返ってみる必要があると思います。その時私たちはソロモンと共に「主よ、あの約束を思い起こして下さい」と祈らずにおれないのではないでしょうか。先達たちに与えられた祝福の約束が、今この時代に現実のものとなるよう、共に祈って行きましょう。

第6章18節〜42節(契約の箱の安置とソロモンの祈り)

2004年8月12日(金)
この祈り自体を、何度も声を出して朗読してみて下さい。何度読んでも、そこに人知を超えた喜び、主との生きた交わりを見出すことでしょう。

第7章1節〜10節(契約の箱の安置とソロモンの祈り)

2004年8月13日(土)
「彼らは、主がダビデとソロモンとその民イスラエルになさった恵みの御業を喜び祝い、心は晴れやかであった。」この御言葉は今や、こう聞えるのではないでしょうか。「彼らは、主がイエス・キリストにおいてなさった恵みの御業を喜び祝い、心は晴れやかであった」と。――明日、私たちは主イエスを仰ぎ、この御言葉の実現に招かれています。

第7章11節〜22節(主の顕現)

2004年8月14日(日)
主の裁きは絵空事ではありません。「私が天を閉じ、雨が降らなくなるとき」が現にあります。「あるいは私がいなごに大地を食い荒らすように命じるとき、あるいは私の民に疫病を送り込むとき」が実際にあるのです。この主の御言葉の前に、自分自身と周囲の事情を黙想してみましょう。――主は御言葉をもって私たちに立ち返るよう呼びかけておられます。14節「もし私の名をもって呼ばれている私の民が、跪いて祈り、私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち返るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。」私たちの悔い改めが主の好意を引き出すのではありません。そうではなく、主なる神様は私たちの悔いし砕けたる魂を決して侮られない方なのです。今日、主は御子キリストのゆえに、私たちの悔いし砕けたる魂を受け入れてくださるのです。

第8章1節〜18節(ソロモンの諸事業)

2004年8月15日(月)
ソロモンは神殿と宮殿を完成させた後、諸事業に着手します。先ず、軍事的・経済的拠点の建設です。次に在留異邦人を労役に服させます。更には神殿礼拝を整えますが、問題はファラオの娘との政略結婚です。これが後に異教礼拝の流入を招くことになるからです。そして17節以下には海外貿易の展開が描かれています。――ソロモンは主から授かった卓越せる知恵を用いて、イスラエルを国際社会の大舞台へと導きました。しかしその影には異邦人労働者が苦役に課せられ、政略結婚による偶像崇拝の流入が起こったのです。――私たちもまた、自分たちの発展を願うあまり、主に対する信仰の節操を犠牲にしてはいないでしょうか。成長発展が第一のことではありません。主の御旨がこの地上に行われること、それこそが第一のことです。主よ、あなたの御意思が今日も行われますように。

第9章1節〜31節(シェバの女王の来訪・ソロモンの富)

2004年8月16日(火)
栄華を極めたソロモンの生涯が描き出されています。シバの女王を感服させたその卓越した知恵。歳入は一年間に23トンもの金、隊商や商人からの納税、諸王や総督からは金銀財宝が納められました。装飾用に作られた純金製の大盾・小盾。象牙作りで純金をまとった王座。その脇には二頭のライオン像。王宮で使用される器はことごとく純金製です。大船団を擁し海外との交易も盛んであり、軍備も堅く、正にイスラエルは国際大国となりました。――しかしこの後の12章によれば、息子レハベアムの治世第五年には、イスラエルはエジプトの攻撃を受け、金銀財宝はことごとく奪い去られたのです。――地上の富を軽んじ、天上に宝を積み上げる人は何と幸なことでしょう。今日一日、天の父に喜んでいただける業に生きること、その一日は永遠に父の記憶から消え去ることはないのです。

第10章1節〜19節(王国の分裂)

2004年8月17日(水)
レハベアムの姿に私たち自身の姿が示されています。即ち、彼は長老たちの勧めには耳を傾けず、自分のイエスマンたちの勧めを入れました。それは結局、何事も自分の思い通り進めようとする人間の姿です。レハベアムはこの重大な局面に当たり、主の御心を尋ね求めるべきだったのです。――今日一日、あなたは誰と会話するでしょうか。主はあなたに誰を通して何を語りかけられるでしょうか。主の御心を尋ねつつ生きる信仰者でありたいと願います。それにしても15節の言葉は重量感のある御言葉です。「王は民の願いを聞き入れなかった。こうなったのは神の計らいによる。主は、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉をこうして実現された。」自分の思い通りに判断し進んでいく所に、主の裁きがあったのです。壮大な、神の裁きと救済の歴史の只中で。

第11章1節〜23節(ユダの王レハブアム)

2004年8月18日(木)
エルサレムに戻ったレハブアムは直ちに軍隊を召集し、戦闘体制に入ります。しかし正にその時、主の言葉が神の人シェマヤに臨みました。「こうなるように計らったのは私だ」との御言葉が取り次がれたのです。この御言葉を聴き入れたレハブアムは、戦闘を思い止まり、神の民は事なきを得たのです。――更に聖書は、レハブアム王就任後の三年間は良い時期が続いたことを告げています。「・・の中から、イスラエルの神、主を求めようと心を定めた者たちが、エルサレムに出て来て、先祖の神、主にいけにえをささげた。彼らは三年間ユダの国を強くし、ソロモンの子レハブアムを支援した。」――神の民の行く末を決するのは、主の御言葉を聴き入れたかどうかにあります。また、神の民が強くされるのは<主を求めようと心に定めた者たちの献身信仰>によります。私たちもまた、そのような献身信仰に支えられるのであり、また、支えていくことがゆるされているのです。

第12章1節〜16節(エジプトの王シシャクの攻撃)

2004年8月19日(金)
イスラエルを脅かすエジプトの王シシャクの登場は偶然ではありません。この敵の登場は「自分たちも力がついたものだ」と安心し、主の御言葉を必要としなくなったイスラエルに対する裁きです。しかしこの主の裁きに対して、この度イスラエルは頑なになることなく、主の御前に謙りました。主はこれを御覧になり、救いを約束して下さいました。なおシシャクの攻撃は続きますが、主は徹底的に滅ぼすことはなさらなかったのです。悔いし砕けたる魂を、主は決して侮られません。今日、主に立ち返りましょう。

第13章1節〜23節(ユダの王アビヤ)

2004年8月20日(土)
北王国の人々は自分たちで祭司を立て、自分たち流の礼拝に陥っていました。一方、アビヤが主張するのは「主が立てられた祭司は誰か」ということであり、主の求めたもう礼拝をささげることでした。明日「私たちのため」ではなく「主のために」礼拝をささげます。

第14章1節〜14節(ユダの王アサ)

2004年8月21日(日)
「アサは彼の神、主を呼び求めて言った。『主よ、あなたは力のある者にも無力な者にも分け隔てなく助けを与えて下さいます。私たちの神、主よ、私たちを助けて下さい。私たちはあなたを頼みとし、あなたの御名によってこの大軍に向かってやって来ました。あなたは私たちの神、主であって、いかなる人間もあなたに対抗することができません。』」あなたは今、どのような戦いの中におられますか? 仕事や家庭の事、将来の事、健康の事、人間関係上の事、私たちには様々な戦いがあります。そこで改めて問うてみたいと思うのです。アサが告白していることを私たちは本当に信じているでしょうか。「あなたは私たちの神、主であって、いかなる人間もあなたに対抗することができません!」と私たちは本当に信じているでしょうか。――聖書が告げる真理は「主なる神様が天地の造り主であられ、すべてのものをご支配しておられる」ということです。私たち自身も、私たちを悩ませる敵の存在も、すべては私たちの神、主のご支配の下に置かれているのです。

第15章1節〜19節(ユダの王アサ)

2004年8月22日(月)
聖書は「教会にはいつも神が共におられる」とは約束していません。3節にこうあります。「長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。」耳を疑いたくなる御言葉です。イスラエルとは神に選ばれた神の民です。今日で言えば教会のことです。その彼らに、長い間、真の神はなく、教える指導者もなく、神を示す書もなかった、というのです。教会が主から離れる時「長い間、イスラエルにはまことの神もなく」ということが確かに起こり得るのです。――御言葉は私たちに「まことの神へと立ち返れ」と呼びかけています。アサ王は礼拝を粛清し、真の神のみを神とする礼拝を整えました。その改革ぶりは、たとえ肉親の母であったとしても妥協することがありませんでした。しかしその改革が進んだのは3〜4節の事実があったからです。「長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。しかし彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち返り、主を求めたので、主は彼らに御自分を示してくださった。」・・苦悩の中で主に立ち返る時、主はあなたに御自身を啓示してくださるのです。

第16章1節〜14節(ユダの王アサ)

2004年8月23日(火)
聖書は私たちに警告しています。「アサは地上の実力者を頼みとし、主を頼みとしなかった」と。「その病の中にあっても、彼は主を求めず、医者に頼った」と(医者に診てもらい治療を受けること自体を否定しているのではない)。――私たちはどんな悩みの中にあったとしても、先ず主の下へと急ぎましょう。主は、主を頼みとし、主と心を一つにして生きる者を待っておられるのです。9節「主は世界中至る所を見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」私たちにとって、敵に勝利し、人生に成功することが第一の事ではありません。主の御心と一つになって生きること、それが第一なのです。

第17章1節〜18節(ユダの王ヨシャファト)

2004年8月24日(水)
「ヨシャファトは主に従う善い王であった」という単純な話ではありません。今や、イスラエル国内から偶像崇拝は取り除かれ、教える祭司がキチンと存在し、主の律法の書がその実力を発揮しています。この事態は15:3を想起させます。「長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった・・。」そうです。神の民イスラエルが苦悩の中で主に立ち返り、主を求めたあの日以来、主は彼らに御自分を示し続けてきて下さったのです。即ち、善王ヨシャファトの登場は偶然ではありません。礼拝が粛清され、教える祭司が与えられ、律法の書による教育が進展しているのは、主の大いなる憐れみによることです。――悔い改めて主に立ち返る時、主は御自分を示してくださいます。それが我らの救い!そこで私たちは“向かうところ敵なし”の神の護りに入るのです。

第18章1節〜8節(預言者ミカヤとアハブ王の死)

2004年8月25日(木)
アハブとの同盟関係が確認された時、ヨシャファトは言いました。「まず主の言葉を求めてください」と。・・・私たちは、仲間との間に協力関係が出来上がれば「よし、これで大丈夫だ!」と思うのです。しかし、それがどんなに心強い協力体制であったとしても、主の御意思でないならば何の役にも立ちません。この戦いに向けて、主は何と言っておられるのか。それを聴くことが第一なのです。――最後の預言者ミカヤに対するアハブの言葉は注目です。「・・しかし、彼は私に幸運を預言することがなく、いつも災いばかり預言するので、私は彼を憎んでいます。」――私たちも、主にのみ従っていく道を求めたいと思います。それは、いつも幸運を告げてくれるような道ではありません。時として、耳の痛い、受け入れ難い道であるかも知れません。しかし、主の御心と一つになって生きる道こそ私たちの最大の幸いです。そしてそれは、御国の宴へと結実していく道なのです。

第18章9節〜34節(預言者ミカヤとアハブ王の死)

2004年8月26日(金)
アハブが事前にとった防御策(変装)は全く功を奏しませんでした。ヨシャファトを敵の標的とし、自分は隠れおおせるつもりでしたが、アハブは敵兵が何気なく引いた弓矢の餌食となるのです。――今日、私たちを守って下さるのは主です。主により頼みましょう。

第19章1節〜11節(エルサレムにおけるヨシャファト)

2004年8月27日(土)
「私たちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない。」世の矛盾・人間関係に苦しむ者は、主イエスのもとに来たれ。罪ある者よ、罪人を裁きかつ生かす主のもとに来たれ。

第20章1節〜17節(ヨシャファトの勝利)

2004年9月5日(日)
モアブ・アンモンの連合軍が襲い掛かってきます。ヨシャファトはこれを見て恐れ、主を求めることを決意し、人々を神殿に参集させ、こう祈りました。「・・私たちの神よ、彼らをお裁きにならないのですか。私たちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。」私たちもまた、人生の戦いの日に同じ祈りに招かれています。「私たちには、この悪魔と自らの罪、そして死に打ち勝つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません」と。恐れる私たちに対する、主の御言葉を聴きましょう。「主はあなたたちにこう言われる。『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。・・そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。ユダとエルサレムの人々よ、恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる。』」アーメン。

第20章18節〜37節(ヨシャファトの勝利)

2004年9月6日(月)
ある人は言いました。「聖書から神の御声を聴き取るのと同じように、賛美をも聴き取ることが大切である」と。私たちは普通「賛美は教わらなくても自然にできる」と思っているかも知れません。しかしその人は「賛美もまた聖書から示され、教えられなければならない」と語ったのです。――本日の聖書には、主に向かって賛美を歌いつつ進軍する神の民の姿が示されています。ヨシャファト王が恐れ怖気づいた大軍に、今彼らは向かっていくのです。しかしその進軍する神の民の姿は<彼らの自身の勇敢>を示すものではありません。「そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。ユダとイスラエルの人々よ、恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる。」この主の確約によって強められ、勇気を奮い起こし、今彼らは出て行くのです。主に対する私たちの賛美は、この主の確約に対するアーメンの大合唱なのです。

第21章1節〜20節(ヨシャファトの勝利・ユダの王ヨラム)

2004年9月7日(火)
ヨラムは真の神を捨てて偶像崇拝の罪に走りました。「しかし主は、ダビデと結んだ契約のゆえに、ダビデの家(ユダ王国)を滅ぼそうとはされなかった」と聖書は語ります。同様に私たちが主の裁きを免れるのは、主が御子イエスと結んだ契約のゆえ、です。そこで今朝の御言葉はこう聴くことができるでしょう。「しかし主は、イエスと結んだ契約のゆえにイエスの家を滅ぼそうとはされなかった」と。――しかし一点注意を要します。主はダビデの家を滅ぼそうとはされませんでしたが、ヨラムその人はお裁きになったのです。神様は、イエスとの恵みの契約を貫きつつ、地上における正しい裁きを行われる方なのです。

第22章1節〜12節(ユダの王アハズヤ・祭司ヨヤダとアタルヤ)

2004年9月8日(水)
「この母が悪い勧めを与えたので、彼もアハブの家の道を歩んだ。」アハズヤ王の不信仰は母の悪い勧めによったと聖書は語ります。・・一方、ダビデ王朝絶滅の危機を救ったのは王女ヨシェバでした。アハズヤの母アタルヤが王族をすべて滅ぼそうとしたその時、ヨシェバは王子ヨアシュを抱きかかえて逃走。乳母と共に六年間、主の宮に幼子を匿ったのです。――ダビデの末として御子をお遣わしになる神の遠大な御計画。その神の御計画を途絶えさせようとした王母アタルヤ。しかし、危機一髪の所で、神の御計画を繋ぎ止めるために用いられた王女ヨシェバ。神の民(教会)の歴史を繋ぎ止めた陰の功労者が、教会にも必ずおられるものです。どうか、主が、この私たちをも用いてくださるように。

第23章1節〜21節(祭司ヨヤダとアタルヤ)

2004年9月9日(木)
アタルヤの悪政を忍耐すること六年。遂に祭司ヨヤダが政変を企てます。匿い続けた幼子を新王に擁立。軍事的・政治的・宗教的指導者たちをエルサレムに招集。政変は女王アタルヤの処刑によって成し遂げられました。聖書は「こうして、国の民は皆喜び祝った。アタルヤが剣で殺された後、町は平穏であった」と記しています。しかし注目しましょう。この政変は政治的である以上に宗教的であったのです。即ち、祭司ヨヤダは長年続けられてきたバアル礼拝を一掃し、律法(聖書)に基づく礼拝を確立したのです。――様々な改革の必要性が叫ばれている今日。様々なものにより頼む不信仰を捨てて、ただ一人のお方に信頼する信仰に生きましょう。そこに、私たち自身の改革の根本があるのですから。

第24章1節〜27節(ユダの王ヨアシュ)

2004年9月10日(金)
ヨアシュは祭司ヨヤダの生きている間は主の目にかなう正しいことを行いました。しかし祭司ヨヤダの死後、王は偶像崇拝に陥り、神の怒りがユダとエルサレムに下ったのです。このヨアシュの信仰的転機を聖書は次のように語ります。「ヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した。そのとき、王は彼らの言うことを聞き入れた。」――良き信仰の指導者を失い、自らは王と崇められ、そして自分を崇めてくれる者たちの言うことに耳を傾け始める時、王ヨアシュの堕落は始まったのです。――主イエスのみが、信仰の良き指導者、私たちの真の王です。このお方にのみ、聴き従って行きましょう。

第25章1節〜4節(ユダの王アマツヤ)

2004年9月11日(土)
「・・・主がこう命じておられるからである。『父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。』」――この死に定められた者を救い得る唯一のお方、主イエス・キリストを明日礼拝します。

第25章1節〜28節(ユダの王アマツヤ)

2004年9月12日(日)
本章を一瞥する時、アマツヤ王の不信仰が目に付きます。しかしその一方で、神様がアマツヤのためにあらゆる手を尽くしておられるお姿も鮮明に示されています。主は、アマツヤに対して聖書の御言葉を与え(4節)、神の人を遣わして御心を知らしめ(7節)、勝利をも賜っておられます(14節)。また更には、偶像崇拝に陥った時も、主は預言者を王の下に遣わし、警告の御言葉を与えておられるのです。しかしそれにもかかわらず、王は心を頑なにし、預言者とその言葉を圧殺し、無謀な戦いへと出て行ったのです。アマツヤは結局、自分の意にそぐわぬ言葉はこれをすべて無視し、自分の思いだけを実現して行ったのです。――主は今も生きて働いておられ、この私たちにも働きかけておられるはずです。そして主は私たちに警告の御言葉をも発しておられるのではないでしょうか。自分の思いではなく、主の御心を聴いて行うこと。それが、この一週間の私たちの歩みでありますように。

第26章1節〜23節(ユダの王ウジヤ)

2004年9月13日(月)
前半と後半のコントラストが鮮やかです。前半に描かれるウジヤ王の躍進は「彼が主を求めている間、神は彼を繁栄させられた」との御言葉の下に置かれています。また、後半のすべては16節の御言葉によって説明されます。「ところが、彼は勢力が増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。」思い上がった王は、越権行為を犯し、祭司が行うべき「香たき」を行おうとしたというのです。――私たちが、主を求め、主の御心と一つに生きる時、主は私たちを繁栄させてくださる、ということがあり得ます。しかし私たち人間は、主によって繁栄し勢力を増した時、思い上がって堕落する傾向があるのです。「この繁栄は自分の力によった」との思いがその堕落の始まりです。――繁栄には思い上がりの罪が、衰退には諦めと開き直りの罪が忍び寄っているのです。

第27章1節〜9節(ユダの王ヨタム)

2004年9月14日(火)
6節「ヨタムは主なる神の御前をたゆまず歩き続けたので、勢力を増すことができた。」ここで「たゆまず歩き続けたので」という言葉は「自分の道を確かなものにしたので」とも訳せますし「自分の道を整えた」とも訳せます。――今日、私たちの国は行き先不明の状態にあると言われ、多くの人々が生き方を見失っている時代であるとも言われます。そのような中にあって聖書は「主なる神の御前にあって自分の道を整えよ」と語ります。――今日一日、いかなる生活の場面においても、主の御前にあって歩み、自らの道を確かなものとしましょう。「コーラム・デオ!」=「主の御前!」こそ、キリスト者すべての生活綱領なのですから。

第28章1節〜27節(ユダの王アハズ)

2004年9月15日(水)
エドム人の再来襲、ペリシテ人の猛攻撃は偶然の出来事ではありません。アハズがユダを堕落させたため、主がユダを辱めておられるのです。しかし、その審きをなす主の御心は、主の民を窮地に追い込むことによって、民を御許に立ち返らせることにあったのではないでしょうか。けれども22節では「このアハズ王は、災難のさなかでも、なお主に背いた」と語られるのです。――窮地に追い込まれてもなお、全能の神の下に助けを求めに行こうとしない、それがアハズの罪です。今日、真の助け主の下に立ち返りましょう。

第29章1節〜19節(ユダの王ヒゼキヤ)

2004年9月16日(木)
「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」ヒゼキヤ王は、先ず何をしたでしょうか。それは神殿を聖別することでした。しかし注目しましょう。王はこう命じているのです。「レビ人よ、聞け。今、自分を聖別し、先祖の神、主の神殿を聖別せよ。」またこの命令に対して15節では「彼らは兄弟たちを集め、自分たちを聖別し」とあります。そうです。聖書的「聖別」とは「先ず自分自身を主にささげる」ことなのです。――礼拝における献金は私たち自身の献身のしるしです。献げられるお金が主の御用のために聖別される前に、私たち自身が主の御言葉によって聖別され、自分自身を主にささげることが肝要です。主イエスは最後の夜に言われました。「私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と。私たちは主から受けた御言葉によって既に聖別されています。「私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」この主の恵みの御言葉を信じ、主の者たちとして、今日一日生活しましょう。

第29章20節〜36節(ユダの王ヒゼキヤ)

2004年9月17日(金)
「こうして主の神殿における奉仕が復活した。」本章の文脈の中で大きく鳴り響いてくる一節です。しかしこの一事が実現するまでにどれ程の歳月を要したことでしょうか。前王アハズの治世が16年間ですから、イスラエルの人々が偶像に仕えていた期間がいかに長かったかを思わずにおれません。それだけに先の一節はズシリとくる重みのある言葉です。「こうして主の神殿における奉仕が復活した。」――私たちは真の神ならぬ神に仕えていないでしょうか。お金、人々の評判、健康、若さ、学力、家族、仕事、名誉・・これらは大事なものばかりです。けれども、私たちを真実に生かす真の神ではありません。主にあらゆる善き事を帰し、主に自らを委ねる生活!それが私たち自身における奉仕の復活です。

第30章1節〜27節(過越祭)

2004年9月18日(土)
「主に立ち返れ」との知らせに、ある人々は謙虚になってこれを聴き入れ、ある人々は冷笑しました。また神殿に集合した民の中に、汚れたまま過越の食事をした者たちがいました。しかし彼らは王の執り成しによって主の赦しを得たのです。礼拝への招きです。

第31章1節〜21節(ヒゼキヤの改革)

2004年9月19日(日)
聖書における改革は何時でも<御言葉による礼拝改革>です。しかもそれは、王が献げ、祭司やレビ人が献げ、民全員が献げる礼拝改革です。――私たち自身のあらゆる改革も、この点から始められるべきです。そして福音はこう告げます。真の神礼拝を私たちの先頭に立って献げられた方がある、と。それは、礼拝の主である御子イエス・キリストです。

第32章1節〜8節(センナケリブの攻撃)

2004年9月20日(月)
センナケリブは何時イスラエルに攻めてきたかが注目です。即ち31:20にこうありました。「ヒゼキヤはユダの全土にこのように行い、自分の神、主の御前に良い事、正しい事、真実な事を行った。彼は神殿における奉仕について、また律法と戒めについて、神を求めて始めた事業を、心を尽くして進め、成し遂げた。」そして聖書は語るのです。正にその時に、センナケリブが攻めてきた、と。・・私たちは普通思うのではないでしょうか。主に対して良い事を成し遂げた後には良い事が来るはずではないか、と。しかし聖書は、良い事を成し遂げた後に恐ろしい敵がやってきたと語るのです。そこで注目しましょう。敵が押し迫ってきた時の、神の民イスラエルの対応ぶりを。「王は・・激励して言った。『強く雄々しくあれ。アッシリアの王とその全軍団を見ても、恐れてはならない。おじけてはならない。我々と共においでになる方は、敵と共にいる者より力強い。敵には人の力しかないが、我々には我々の神、主がいて助けとなり、我々のために戦って下さる。』民はユダの王ヒゼキヤの言葉に力づけられた。」そうです。彼らが良い事を行ったことの結果は「万軍の主が我々の味方!」と皆でアーメンをもって言えるようになっていた、ということなのです。――私たちの礼拝が整えられる時も同じです。礼拝が整えば災いが起こらないのではないのです。「万軍の主が我らの味方!」と皆で言えることが真の力なのです。

第32章9節〜19節(センナケリブの攻撃)

2004年9月21日(火)
アッシリアの王センナケリブの執拗な脅しに、サタンの攻撃の仕方が現れています。即ち「あちらの国もやられ、こちらの国もやられ、我々に屈しなかった国は一つもない」とセンナケリブは脅してくるのです。「だから、お前たちの神も我々に屈するより他ないのだ」というのが彼の論法です。――しかし聖書はその様なセンナケリブに対してこう語るのです。「彼らは、エルサレムの神を、人の手の御業にすぎない諸国の神々と同じように考えて語った」と。――あの十字架の上で、サタンの圧制と人間の罪の力、そして死そのものに勝利された主キリストがおられます。復活し、今は天におられる主イエスこそ、私たちの万軍の主、今日一日私たちを守り通してくださる勝利の主です。

第32章20節〜33節(センナケリブの攻撃)

2004年9月22日(水)
主がもたらして下さった大勝利の直後こそ大いなる注意です。主が、恐るべき敵の手からイスラエルの民を救い出し、彼らに平安を与えて下さった時、この度の勝利が王ヒゼキヤに帰せられた、というのです。人々はヒゼキヤ王を仰ぎました。それ故にヒゼキヤは勘違いをして、主から受けた恩恵にふさわしく応えず、思い上がってしまったのです。――私たちもまた「良かった良かった」と言いながら、半分は神様に、半分は人間に、栄光を帰してはいないでしょうか。主に全栄光を帰する今日一日を生きましょう。

第33章1節〜25節(ユダの王マナセ・ユダの王アモン)

2004年9月23日(木)
マナセは人々を神様へと導かず、諸国の民よりも不信仰な道へと誘いました。しかしそれにも関わらず、主はマナセとその民に語りかけられました。けれども、彼らはその主の御言葉に耳を貸そうとはしませんでした。それゆえ主は、アッシリアの将軍を用いてマナセとその民を苦しめられたのです。すると「彼は苦悩の中で自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、祈り求めた。神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された。こうしてマナセは主が神であることを知った。」主がマナセに対して行われた事のすべては、マナセの頑な心を打ち砕き、主の御許に立ち返らせるためだったのです。――今も主は、私たちに「立ち返れ」と呼びかけておられます。私たちがマナセと同じく、苦悩の中で主に願い、主の御前に深くへりくだって祈る時、主は御子キリストのゆえに、私たちを赦し、受け入れてくださるのです。

第34章1節〜33節(ユダの王ヨシヤ)

2004年9月24日(金)
マナセの治世55年、息子アモンは2年、計57年間、聖都エルサレムは偶像崇拝によって汚されてきました。その様な中、ヨシアは若くして礼拝改革を実行します。するとその作業中に神殿から律法の書が発見されました。女預言者フルダはこの事態を受けて、偶像崇拝に対する主の怒りが燃え上がっていると告げました。「彼らが私を捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で作ったすべてのものによって私を怒らせたために、私の怒りはこの所に向かって注がれ、消えることはない。」――私たちを最終的に脅かしているのは、病や運命ではなく、神の怒りです。私たちは、神との間に和解を得ぬうちは、真の平安を得ることがありません。しかしその様な私たちに福音は語ります。消えることなき神の怒りは御子キリストの十字架上にすべて降り注がれた、と。私たちは、御子の十字架を仰ぎ、成し遂げられた神様との和解を信じ、平安のうちに主に祈ることがゆるされているのです。

第35章1節〜27節(ユダの王ヨシヤ)

2004年9月25日(土)
主イエスによる過越祭。それは、神の怒りの過越であり、サタンの支配からの解放です。明日、私たちは礼拝において、十字架と復活の主キリストの恵みのご支配に与るのです。

第36章1節〜23節(ユダの王ヨアハズ・ユダの王ヨヤキム・ユダの王ヨヤキン・ユダの王ゼデキヤとバビロン捕囚)

2004年9月26日(日)
ユダ王国の滅亡。それは具体的にはネブカドネツァル王による来襲・破壊・捕囚ですが、聖書はそこに主の裁きを見詰めています。そして、滅亡に至るまでの経緯をこう語っています。「先祖の神、主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」私たちは、この御言葉の重みと凄まじさを侮ることはできません。主イエスの十字架と復活による御救いを、自らの罪を容認するための道具にすることはゆるされません。悔い改めをスキップして「神様が共にいてくださるから大丈夫」などと嘯くことはできないのです。最後、聖書は不思議な安息を語ります。「その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。」今や主の裁きは過ぎ去り、大地は安息を得、主が定め給うた年月が満ちたというのです。――歴代誌最終章は、主の徹底的裁きを包まず語ると共に、イスラエル再建への光を告げています。正に、大いなる裁きを突き抜けたシャローム(主の平安)がここにあります。そしてそれは、主と共に死に、主と共に甦る私たち自身の救いです。


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