歴代誌上


第1章1節〜54節(アダムからアブラハムまでの系図・アブラハムの子孫・エドムの王)

2004年7月4日(日)
歴代誌はサムエル記・列王記の繰り返しではないか?との思いが、今後何度となく沸き起こってくるかもしれません。そこで覚えておきましょう。歴代誌には北王国イスラエルの歴史が欠けていることを。即ち、この書は南王国ユダ中心に物語られているのです。またその中心内容は<主なる神様は自分たちを恵みの契約の中に置いていて下さる>というものであり<神殿礼拝に象徴される神を喜ぶ生活>が強調されています。――その第一章は神の恵みの契約がアダムにまで遡り得ることを明示しています。次の信仰問答を味わいましょう。問「聖なる公同の教会について、あなたは何を信じていますか。」答「神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、御自分の御霊と御言とにより、真の信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ。そしてまた、私がその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。」本章において私たちは<巨大な召天者記念礼拝>に参列するのです。

第2章1節〜55節(イスラエルの子ら・ユダの子孫・ラムの子孫・カレブの子孫・エラフメエルの子孫・カレブのほかの子孫)

2004年7月5日(月)
本章において、歴代誌が南王国ユダ中心であることがハッキリ出てきました。先ずイスラエル十二部族が示されますが、即座にユダの系統へと移行します。ユダの子ペレツからラムへ、そしてエッサイとその子らが紹介されます(その一人がダビデ!)。更に18節以下にはユダ南部の人々の名前が列挙されて行きます。――歴代誌は、変動の絶えない人類史の只中に、それを貫く神の救済計画を見出す歴史感覚を持っています。そして、その計画の中心にユダの系統が位置づいていると確信しているのです。――歴史的大変動の只中に<神の救済計画の筋>を見出す人は何と幸いなことでしょう。その大いなる筋の中に、自らを見出せる人は何と幸いなことでしょう。キリストに連なる者たちに与えられる幸いです。

第3章1節〜24節(ダビデの子孫)

2004年7月6日(火)
ダビデの子らの名が列記されています。ヘブロンで王位にあった時代の子ら、即ち、父ダビデを苦しめたアムノン・アブサロムらの名が先ず記されています。彼らは自分の思いに従って生き、流血の災いを引き起こし、父ダビデを苦しめました。次いで、エルサレムで王位にあった時代の子らの名が記されますが、ソロモンは特別扱いです。そしてここに、歴代誌記者は神の選びの系統を見詰めているのです。――父を同じくして生まれたダビデの子たち。その彼らを右と左に分けたのは主なる神の選びです。しかし、そこに、自分の思いに付き従っていった罪のあったことを忘れてはなりません。ダビデの子であることが自動的に救いを保障するわけではないのです。主よ、この憐れな罪人を憐れみたまえ。

第4章1節〜43節(ユダの子孫―もうひとつのリスト)

2004年7月7日(水)
最近有名になったヤベツの祈りが記されています(『ヤベツの祈り』という書物によって)。彼の祈りを私たちの日毎の祈りといたしましょう。「どうか私を祝福して」:私たちは「あの方を祝福して下さい」と祈るように「私を祝福して下さい」と大胆に祈って良いのです。「私の領土を広げ」:私たちは日々、神の恵みの御支配の領土が広がるよう祈るのです。「御手が私と共にあって災いから私を守り、苦しみを遠ざけてください」:主に従う者は<悪と戦う戦士>であると同時に<主によって保護される雛鳥>なのです。

第5章1節〜41節(ルベンの子孫・ガドの子孫・ヨルダン川東のマナセの子孫・レビの子孫―大祭司の系譜)

2004年7月8日(木)
「最近はカタカナの名前ばかりだ」と多少うんざりしておられる方があるかも知れません。そこで、考えてみていただきたいのです。この名前の連続の中に、もし自分の名前があったとしたら?!もし、家族や親戚の者たちの名前があったとしたら?!それは、単なる名前ではなくて、掛け替えの無い、欠くことのできない名前に違いない思うのです。――神様が著者であられる「命の書」は未だ完結していません。あの方この方の名前が、神様の「命の書」に新たに書き記されねばならないのです。

第6章1節〜38節(レビの一族・詠唱者)

2004年7月9日(金)
「命の書」に書き記されたヘマンの名には「詠唱者」という言葉が冠せられています。何と印象的で、その人全体を映し出す言葉でしょうか。「詠唱者!」それは、神を賛美する人のことです。――神を賛美する詠唱者たちは、既に神殿礼拝以前に存在していました。それは、古くイスラエルの礼拝において神賛美が欠かせない要素であったことを物語っています。神様が選んでくださった神の民の只中に、神賛美がどれほど豊かに鳴り響いてきたことかと、今更ながらに思わされるのではないでしょうか。――福音主義教会の祖マルティン・ルターは「賛美歌を歌おう。そして悪魔を退散させよう」と語ったと言われます。正にその通りです。聖書によって神様の御言葉を聴き、祈り、主を賛美する。これに勝るサタン撃退法はありません。私たちもまた「詠唱者」の列に加えられ、日々神をほめたたえつつ、御国へと前進しましょう。神の「詠唱者!」主日礼拝において、家庭において、それぞれに置かれている場において、賛美歌を歌い、悪魔を退散させましょう。

第6章39節〜66節(レビ族の居住地)

2004年7月10日(土)
レビ人は、神と人との間に立って仲保の役割を果たしますが、それは今日の教会に当たります。教会は、自分たちの信仰が保たれるためだけに礼拝に与っているのではありません。教会に連なる私たちは、世の人々に先立って主に召され、主を仰ぐことをゆるされ、世の執り成し手として立てられているのです。――明日主の御前に出ることができるよう祈りましょう。そして、私たちを祝福の源として立ててくださるよう、主に祈りましょう。

第7章1節〜40節(イサカルの子孫・ベニヤミンの子孫・ナフタリの子孫・マナセの子孫・エフライムの子孫・アシェルの子孫)

2004年7月11日(日)
連続するカタカナ名の只中に、人生を垣間見る言葉を見出す時、そこにオアシスを見出した喜びがあります。しかし本日のオアシスはどうでしょうか。我が子に「ベリア(災い)」と命名するとは一体何事でしょうか。父エフライムは、息子二人が殺害された災いを末代まで忘れまいとしたようです。それは「息子たちが家畜を奪おうとしたことは十戒に反する行動だった」と銘記するためではなかったでしょうか。「この災いは主の怒りである」と彼は知っていたのです。――しかし注目しましょう。ベリアの息子はレファ、孫がレシェフ・・・ノン、ヨシュアと系図は続いて行くのです。あのイスラエルの大指導者ヨシュアはベリア(災い)の末として生まれてきたのです!――聖書は<親の因果が子に報い>とは言いません。むしろ、主の怒りによる災いを忘れまいとした所から、新時代が打ち開かれて行ったと語ります。人生と歴史を贖って下さる主が、今日あなたと共に歩まれます。この方の御前で、私たちは慙愧の念から解放され、真に立ち上がることができるのです。

第8章1節〜40節(ベニヤミンの子孫―もうひとつのリスト)

2004年7月12日(月)
ベニヤミンの子孫だけにもう一つのリストが登場するのはなぜでしょうか。それは、イスラエルの初代王サウルの系図を明らかにするためです。名家が凋落する如く、信仰の節操を失っていったサウルとその子孫。系図は今日の私たちにも語りかけています。「サウルにはヨナタン、マルキ・シュア、アビナダブ、エシュバアルが生まれた」と。ヨナタンとは“主なる神の賜物”という意味です。マルキ・シュアとは“主なる王は救い”、アビナダブは“わが父は高貴”。そしてエシュバアルは“バアルはいます”との意味だと言われます。サウル家凋落の原因は、自分たちを選び愛して下さった主なる神を捨てて、自分自身の力に頼み、これを誇りとし、遂にはバアルを頼みとするに至ったことにあったのです。しかしその一方で、ヨナタンは自分の息子にメリブ・バアルと命名しました。それは“バアルに反対する者”という意味です。――私たちのような者を一方的な愛によって選び、神の民として下さった主なる神に立ち返りましょう。この方こそ、全幅の信頼を寄せて良い、私たちの父なる神、全能の王なる主なのです。

第9章1節〜44節(捕囚期の後、エルサレムに住んだ者)

2004年7月13日(火)
1節の「イスラエルの人々」とは北王国の民ではなく、バビロン捕囚から帰還してきた人々のことです。その彼らが崩壊したエルサレムを再建して行く!そこで先ず何が必要だったか。エルサレム神殿の再建です。そのために一人一人がその職務に当たっていくのです。門衛たちがシッカリと神殿の入口を守ります。祭儀用具の責任者たちが器の数を調べ、祭具・麦粉・ぶどう酒・オリーブ油・香・香料の責任を持ちました。――今日、キリストの体なる教会こそ主の神殿ですが、これを構成する一人一人が不可欠の存在です。礼拝が神様との出会いの場となるためにはあなたが不可欠である。御言葉はそう語り掛けています。

第10章1節〜14節(サウルの死)

2004年7月14日(水)
歴代誌の記者はここに振り返ります。なぜ自分たちはバビロン捕囚という神の審判を受けたのか。なぜ自分たちは南北朝に分裂し、やがて王制は崩壊して行ったのか。その理由の根幹を、痛悔の念と共に書き記すのが13節です。「サウルは、主に背いた罪のため、主の言葉を守らず、かえって口寄せに伺いを立てたために死んだ。彼は主に尋ねようとしなかったために、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに渡された。」――「彼は主に尋ねようとしなかったために!」それはサウル一人の問題ではありません。神の審判を受けていく神の民一人一人の問題だったのであり、現代を生きている私たち自身の問題でもあります。そして忘れてならないことがあります。この痛悔は、捕囚から帰還した者たちが行ったのであり、彼らはこの一事が都再建の鍵であると知っていたのです。「彼は主に尋ねようとしなかったために!」人生と教会の行く末がこの一事にかかっています。

第11章1節〜47節(ダビデ王の登場)

2004年7月15日(木)
10節「ダビデの勇士の頭は次のとおりである。彼らはダビデの統治に協力し、イスラエルのすべての人々と共に、主がイスラエルに告げられたとおり、ダビデが王となるように尽力した。」――今日の私たちに求められていることは、主イエスが私たちの世界において真の王となられるように尽力することです。主の教会に連なる者一人一人が、主イエスが王となるように尽力しなければなりません。牧師は、主の御言葉を取り次ぐことによって尽力します。長老は、主のご支配が教会にあるよう祈り決断します。執事は、主の愛が地上に現われるよう配慮し奉仕します。しかしそれら全ては、教会に連なる一人一人の祈りと奉仕によってのみ支えられます。皆で、主イエスが王となられるよう尽力しましょう。

第12章1節〜41節(ダビデ王の登場)

2004年7月16日(金)
23節「毎日のように、ダビデを助ける者が加わり、ついに神の陣営のような大きな陣営ができた。」ダビデの人望が人々を集めているのではありません。確かに彼は人望ある人物ですが、それが決定的ではありません。そうではなくて、聖霊なる神が働いておられるのです。聖霊こそ、私たちを導き、主イエスが王であられることを啓示された方なのです。

第13章1節〜14節(神の箱を迎えに行く)

2004年7月17日(土)
ウザはなぜ砕かれたのか。それは、彼が自分で神様を支え助けようとしたからです。一方オベド・エドムはただただ一方的に神の祝福を受けました。静まって明日に備えましょう。

第14章1節〜17節(ダビデ王の勢力増大)

2004年7月18日(日)
15節にこうあります。「茂み越しに行軍の音を聞いたら、そのとき出て行って戦え。神がペリシテの陣営を討つために、あなたに先んじて出陣されるのだ。」聖書は「戦いの日に主なる神御自身があなたに先んじて出陣されるのだ」と告げています。私たちが戦いに出て行こうとするに先んじて、主なる神様が既に出陣しておられるというのです。――主が既に出陣しておられると知って出て行く人は、何と幸いなことでしょうか。この自分が主によって立てられ、遣わされていくと知って出て行く人は、何と幸いなことでしょうか。今日一日、主の遣いとして生きましょう。主が既に先立っておられると知って。

第15章1節〜29節(神の箱を迎えに行く)

2004年7月19日(月)
以前、ダビデがキルヤト・エアリムから神の箱を運び上ろうとした時、牛がよろめき、ウザが手を伸ばして箱を支えようとしたことがありました。その時、ウザは主の怒りに撃たれ、ダビデはこれに怒りを覚えました。主は何故にウザを撃ったのか、その理由が分からなかったからです。――そのダビデが、この度は祭司とレビ人を招集し、彼らにこう告げています。「兄弟たちと共に自らを聖別し、イスラエルの神、主の箱を、私が整えた場所に運び上げよ。最初の時にはあなたたちがいなかったので、私たちの神、主は私たちを打ち砕かれた。私たちが法に従って主を求めなかったからである。」またこうも言っています。「神の箱を担ぐのは、レビ人でなければならない。彼らこそ、主の箱を担ぎ、永遠に主に仕えるために主によって選ばれた者である。」先に下った主の怒りは主に選ばれた者に箱を担がせることなく、自分たちで勝手に行動したためであったというのです。しかし注目しましょう。ダビデは「私たちが法に従って主を求めなかった」と言っているのです。主の事柄に関して、自分たちだけで判断し、主の御心を求めないこと、それは主御自身を求めないことなのです。主の御心を尋ね、主御自身を求めて、進みましょう。

第16章1節〜43節(神の箱の前で儀式を始める)

2004年7月20日(火)
4節に「彼はレビ人の幾人かを奉仕者として主の箱の前に立て、イスラエルの神、主をたたえて感謝をささげ、賛美するように命じた」とあります。また7節には「ダビデはその日その時、初めてアサフとその兄弟たちに、主に感謝をささげる務めを託した」とあります。主を賛美するよう命じられたレビ人たちは何と誇らしかったことでしょうか。主に感謝をささげる務めを託された時、アサフとその兄弟たちはどれほどの喜びに満たされたことでしょうか。――私たちは、イエス様によって救われ、主なる神を賛美するよう命じられ、主に感謝をささげる務めを託された者たちです。何と誇らしく喜ばしい務め!

第17章1節〜15節(ナタンの預言)

2004年7月21日(水)
ナタンはダビデに主のご意志を告げました。「主が、あなたのために家を建てる」と。「主のために神殿を!」と意気込むダビデに対してです。――ダビデは神の箱を都に運び入れる役割を既に果たしていました。また1節にあるように、彼は大きな屋敷を構える者ともなりました。そこで思い立ったのです。「神の箱は未だに天幕の下。そうだ、主のために神殿を建て、神の箱をしかるべき場所にお納めしなければならない」と。しかし、そのようなダビデの信仰的善意に対して、主なる神様は「私が、あなたのために家を建てる」と宣言されたのです。ダビデの善意は「主の恵みに対して善き応答を!」ということでした。しかし主は「私は恵みに恵みを増し加える」と言われたのです。――私たちも何時しか神様の恵みをギブ・アンド・テイク(持ちつ持たれつ)という次元に引き下ろしてはいないでしょうか。神様は、恵みに更なる恵みを増し加えて、迫ってくるお方です。「神様のために何かしてあげなければ」という傲慢を捨て、主の恵みに浴する素直さに生きましょう。

第17章16節〜27節(ダビデ王の祈り)

2004年7月22日(木)
自分自身が神の民の一員に加えられた日のことを思い起こし、本日のみ言葉を深く味わってみましょう。また、教会に連なるあの兄弟、あの姉妹もまた、主の大いなる恵みによって選ばれた神の民であることを、もう一度心に確かめてみましょう。

第18章1節〜17節(ダビデの戦果・ダビデの重臣たち)

2004年7月23日(金)
聖書は繰り返し語ります。「ダマスコのアラム人に対して守備隊を置いた。こうしてアラム人もダビデに隷属し、貢を納めるものとなった。主はダビデに、その行く先々で勝利を与えられた。」「ツェルヤの子アブシャイは塩の谷でエドム人一万八千人を討ち殺し、エドムに守備隊を置いた。こうして全エドムはダビデに隷属した。主はダビデに、行く先々で勝利を与えられた。」ダビデの戦いを主が援護して勝利を与えられた、という話ではありません。「ダビデにはこれだけの事をさせよう」という主のご計画が先ずあって、ダビデはその役割のために立てられ、勝利が与えられたのです。――私たちはしばしば「私の弱い所を補って下さい」などと祈ることがあります。しかしそれは正しい祈りでしょうか。神様は私たちの弱さを補う方ではなく、弱い私たちを丸ごと御業のために用いて下さる方ではないでしょうか。――主よ、この私をあなたのご計画のために用いてください。

第19章1節〜第20章8節(アンモン、アラムとの戦い)

2004年7月24日(土)
20:2「ダビデはその王の冠を王の頭から奪い取った。それは一キカルの金で作られ、宝石で飾られていた。これはダビデの頭を飾ることになった。ダビデがこの町から奪い去った戦利品はおびただしかった。」――主イエスの勝利を指し示し、預言する御言葉です。主イエスこそ、王の王!サタンは主の御前に屈服し、全世界は最後主の下に帰するのです。

第21章1節〜13節(ダビデの人口調査)

2004年7月25日(日)
この度ダビデはイスラエル全土に人口調査を命じます。「この民は何人いるだろうか。兵士はどれ位か。」このダビデの思いと行動に対して、聖書は「サタンが・・ダビデを誘った」と語り「神はこのことを悪と見なされ」と言っています。どうしてでしょうか。――私たちの教会でも礼拝出席者数を数えますし、集会統計もあり、教会員が増えるよう常に願っています。それは主の御心に反することなのでしょうか。――主がなぜこのことを悪と見なされたのか、その理由は明記されていません。しかしダビデは、主の恵みとして民の数を数えたのではなく、自分の功績と力とをそこに数え上げたのではないでしょうか。・・私たちも、主の恵みであるものを、自分の何かであるように数え上げていないでしょうか。本日の御言葉は私たちを悔い改めへと導いています。「ダビデは神に言った。『私はこの様なことを行って重い罪を犯しました。どうか僕の悪をお見逃し下さい。大変愚かなことをしました。』」主よ、あなたの恵みを数える幸いへと立ち返らせて下さい。

第21章14節〜第22章1節(ダビデの人口調査)

2004年7月26日(月)
神罰としての疫病が蔓延します。「イスラエル人のうち七万人が倒れた。」しかし、主の御使いがエブス人オルナンの麦打ち場に差し掛かった時、天より主の御声が轟きました。「もう十分だ。その手を下ろせ。」――主はなぜストップ命令を発せられたのか。それは<神殿建設予定地を示すため>です。この後、ダビデは同地を買い取って祭壇を築き「神なる主の神殿はここにこそあるべきだ」と宣言します。自らの罪故に発生した疫病。その疫病を主が停止して下さった地。ここにこそ神殿はあるべきだと言うのです。――実にこの麦打ち場こそ、かつてアブラハムがイサクをささげたモリヤ山上であり、ソロモンが神殿を建設していく土地となるのです。主の御業は奇しきかな! 人間の罪が露顕した所、しかし主が罰を思い止まられた所、そこに主の礼拝所が立って行くのです。

第22章2節〜19節(神殿造営の準備)

2004年7月27日(火)
神の御業のために呼び出された者たちは「自分の代で事を完成させねばならない」と頑張る必要はありません。ダビデは自分が神殿を完成させるのでないと知っていました。そしてそのことを知った上で、神殿建設のためにでき得る限りの準備をしたのです。彼は息子ソロモンに主の御言葉を語り伝え、主の祝福を祈願します。そして、高官たちに向かってはこう命じました。「今こそ、心と魂を傾けてあなたたちの神、主を慕い求め、神なる主の聖所の建築に立ち上がれ。」ダビデの言葉に重なって、主の御声が聞こえます。神なる主の聖所、キリストの体なる教会の建設に立ち上がれ!と。神の永遠の事業への参与。

第23章1節〜32節(レビ人の任務)

2004年7月28日(水)
神殿における奉仕はダビデの命令によりキチンと分担されていました。ダビデはイスラエル全土から全高官・祭司・レビ人を召集し奉仕を割り当てます。本日の23章は、その中でレビ人の任務について記しますが、彼らは、務めを指揮する者、役員と裁判人、門衛、楽器を奏でて主を賛美する者として立てられて行きます。また、その奉仕も種々様々で28節以下に列記されています。――私たちはどのような心の姿勢で、教会での奉仕、世にあるキリスト者としての務めを受け止めているでしょうか。「これは主が求めておられる務め」と受け止めているでしょうか。――今日一日、「これを頼む」との主の御声を聴きつつ、奉仕の業に当たりましょう。ある修道女は、台所でりんごの皮をむくことにさえ、主に仕える喜びを感じたと言われます。そうです。主にあっては、雑用など存在しないのです。

第24章1節〜31節(祭司の組織・その他のレビ人)

2004年7月29日(木)
聖なる祭司職への任命がくじ引きで行われるとはどういうことでしょうか。――普通私たちは「くじに当たるのは偶然のこと」と考えていると思います。しかし聖書はそうは考えていません。主の御前で「御心を示したまえ」と祈り、そこで示された結果は主の御心である。それが聖書の発想であり、今日まで受け継がれてきた教会の伝統なのです。――聖書は、人生における主人は私自身ではないと教えています。主が私たちの人生の主となられる時、私たちは真実に自由な者とされます。私の人生の意味は何か。私は人生においてどのような役割を果たすか。もうその様に悩む必要はないのです。主が私たちの人生に意味を示してくださいます。主が私たちに使命を与えてくださいます。主の御前に静まり、受身になる時、私たちは真に解き放たれ、生きる喜びを知ります。――くじ引き、それは人間の手を入れることなく、純粋に神様からの示しを受ける聖書的知恵であったのです。

第25章1節〜31節(詠唱者)

2004年7月30日(金)
詩編の多くにダビデの名が冠せられているように、ダビデは詩人でした。詩を歌い、主を賛美する喜びをよく知っていた人であるに違いありません。その彼が、全イスラエルを主の御前に立て上げるために、ここに聖歌隊を編成します。しかしこの度もまた、その任務への割当はくじ引きによるのです。即ち「私は〜〜がしたい」ではなくて「主はあなたにこの役割を与えてくださった」なのです。――今日一日、主が私たち一人一人に賛美の奉仕を割り当ててくださるように。主の訓練を受けて、熟練した主の聖歌隊となるために。

第26章1節〜32節(門衛・他のレビ人の任務)

2004年7月31日(土)
キリスト者は人々を神へと導く<命の門>です。どうして私がそのような者であろうかと私たちはたじろぐかもしれません。しかし主の御言葉を受けたなら、聖霊に与ったなら、私たちも<命の門>です。明日、主によって<命の門>としていただきましょう。

第27章1節〜34節(軍隊の組織・王室財産の管理)

2004年8月1日(日)

軍隊の組織です。その際ダビデは20歳以下の者を数に入れませんでした。そしてその理由は「主がイスラエルを空の星のように数多くすると約束されたから」でした。ダビデは今、各自を任務に就けさせ、軍隊を配備しますが、その数を心配してはいません。主なる神様を信頼し、かつてアブラハムに与えられた約束を信じているからです。「天を仰いで星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる(創世記15:5)。」・・一方、ヨアブはその数を数え、神の御怒りがイスラエル全体に臨みます。「自分たちの勢力はどれくらいだろう。」「現在の勢力で十分戦えるだろうか。」主なる神への信頼を失ったところで、自分たちの力・勢力を測り始めたのです。――どんなに敵が強そうに見えたとしても、主なる神が味方であるなら、誰が私たちに敵対できましょう。状況は困難を極め、自分たちの無力だけが目に映るとしても、主の約束は貫かれ、必ず実現されるのです。しかも主なる神様は、必要な役割手をも既にチャンと立てておられるのです。今日一日、主の陣営にいる者として、安心して勇敢に過ごしましょう。

第28章1節〜21節(ダビデによる神殿建築の宣言)

2004年8月2日(月)

ダビデは自分の代で神殿建設が完成されるのではないと知っていました。けれども彼は今自分が為すべき準備をすべて整えて、息子ソロモンに一切を託します。その信仰者ダビデについて、聖書はかつ目すべきことを語っています。12節「彼はまた、霊を受けて考えたあらゆるものの設計図を手渡した。」ダビデが神殿の設計図を描いたわけですが、それは聖霊を受けてのことであったというのです。――私たちにおいてもまた、あれこれ考えた事柄が聖霊を受けている場合があり得ます。私たちが考えるプランそのものが、聖霊によって与えられたものである時があり得るのです。そしてその場合には、計画は必ず成し遂げられるのです。「勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない。私の神、神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである。」

第29章1節〜9節(神殿建築のための寄贈)

2004年8月3日(火)

ここに建設される宮は「人のためではなく神なる主のためのもの」です。ダビデは今、その神の宮が建て上げられるために自ら進んで捧げます。金・銀・青銅・鉄・木材・石材を。そして彼は全イスラエルに向かって呼びかけます。「今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか」と。・・すると、この呼びかけに応えて、イスラエルの長(おさ)たちがこぞって自ら進んで捧げるのでした。――今日、十字架の主イエスが私たちに呼びかけておられます。「今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか」と。

第29章10節〜30節(ダビデの祈り・ソロモン王の即位)

2004年8月4日(水)

天地万物は主のもの!この私自身の命も主のもの。そして主は万物を支配しておられる。ダビデは全栄光を主に帰して祈ります。そして、金・銀・その他あらゆるものを捧げ尽くした自分たちを指して、こう祈ります。「このような寄進ができるとしても、私などは果たして何者でしょう、私の民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、私たちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」真に「すべてはあなたからいただいたもの」です。すべてを主に帰しましょう。この自分の命、家庭、国家、そして全宇宙を。主よ、すべてをあなたのものとして取り戻し、回復してください。


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