列王記下


第1章1節〜18節(エリヤとイスラエルの王アハズヤ)

2004年6月2日(水)
16節に主なる神様はこう言っておられます。「あなたはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして使者を遣わしたが、それはイスラエルにその言葉を求めることのできる神はいないということか。」主なる神様は、王が主の言葉を求めてやってくるのを待っておられるのに、王は主ではなくバアルの所へ行って伺いを立てている。その王に対して主は怒っておられるのです。しかしその怒りの御姿の背後に、主なる神様の私たちに対する招きがあります。私たちの訴えを、祈りを、叫びを、シッカリ受け止める用意が神様にはあるのです。主は私たちのことを悪いようにはなさいません。私たちの人生と命に対して主は全責任を負っておられます。その主が、私たちを真実の祈りへと招いておられるのです。

第2章1節〜25節(エリヤ、天に上げられる・エリシャの二つの奇跡)

2004年6月3日(木)
本章には数個の不思議が記されていますが、その中心にはイスラエル指導者の継承の問題があります。そして、その後継者であるエリシャの描き方は、一方ではエリヤの力を継承しそれを発揮していますが、他方では子供たちに馬鹿にされるという一面を併せ持っているのです。<人の目に映るエリシャの姿>と<主が立てておられるエリシャ>との間には大きな大きなギャップがあるのです。――エリシャがエリヤから離れなかったように、私たちも主イエスと一体になって生きましょう。その時、私たちは聖霊の御力によって、必要なすべての賜物を与えられ、主から委託されている御業に仕えることができるのです。

第3章1節〜27節(イスラエルの王ヨラム)

2004年6月4日(金)
聖書は「現段階では北王国の腐敗から南王国は免れている」と見ています。 しかしこの度北王国・南王国・エドムの三カ国連合が実現し、行く手に暗雲が垂れ込めています。すると案の定、部隊と家畜のための<命の水>が底をつきました。そこで預言者エリシャが呼び出され、主の御言葉が告げられます。「風もなく、雨もないのに、この涸れ谷に水が溢れ、あなたたちは家畜や荷役の動物と共にそれを飲む。」――全能の主なる神様は「風もなく、雨もない」何の音沙汰もないところで、御国の御業を前進させることがおできになる方です。私たちもその御業に呼び出されていることを覚えて、今日を生きましょう。

第4章1節〜44節(エリシャの奇跡)

2004年6月5日(土)
負債のすべてを満たして余りある油。私たちにとって、それは、十字架の主のお体から溢れ出る御霊です。この御霊は私たちに降り注ぎ、永遠の命を与えてくださるのです。

第5章1節〜14節(エリシャの奇跡)

2004年6月6日(日)
エリシャの言葉を聞いて身を翻し、憤慨しながら立ち去っていくナアマン。なぜ彼はこれ程に怒りを覚えるのか。それは、神の癒しの御業が余りにも簡単に行われると聞いたからです。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」「この重病がそう簡単に治るものか。水で体を洗うだけとは子供だましな」とナアマンは思ったのではないでしょうか。そんな彼を家来たちが諌めます。それを受けてナアマンは、とりあえず神の人の言葉に従い、ヨルダン川に身を七度浸しました。すると「彼の体は元に戻り、小さな子供の体のようになり、清くなった」と聖書は告げています。私たちもまた、ナアマンと同じ過ちを犯すのではないでしょうか。神様の癒しがそんなに簡単に与えられるだろうか。人間は複雑なのだから、そう単純に神を信頼していって良いのだろうか。様々な思いが私たちの中にはあります。けれども、今日の御言葉は“主の御言葉に単純素朴に従っていく信仰こそ生きる力”と語っているのではないでしょうか。人間を本当に健やかにして下さる主に、すべてを委ねる人は何と幸いでしょうか。

第5章15節〜33節(エリシャの奇跡)

2004年6月7日(月)
ナアマンに対して起った主の癒しの御業!預言者エリシャはすべてを神の栄光に帰しました。けれども、その従者ゲハジは、密かにお礼の金銭と品を頂き、それを家にしまい込みました。そのゲハジに対して預言者エリシャは語ります。「あの人が戦車から降りて引き返し、お前を迎えたとき、私の心がそこに行っていなかったとでも言うのか」と。――神の栄光をかすめ取る不正は神の眼には隠されておらず、聖霊がそれを明らかにする時が必ず来る、ということです。十字架の主の御下にのみ、我らの救いがあります。

第6章1節〜7節(エリシャの奇跡)

2004年6月8日(火)
エリシャは仲間の預言者たちと共同生活をしていたようです。そしてこの度は、自分たちの住居を新築しようということになりました。ところが伐採作業が進む中、一人が斧を誤って水中に落としてしまいました。その斧は借り物でしたが、神の人が枝を投げ込み、それを救い上げることに成功したという話です。――私たち信仰者もなお借りものであることがあり得ます。人から聞いた言葉によって信仰は芽生えます。多くの人々の支えを受けて信仰者は成長させられます。つまり、主イエスと私たちが本当に一体となるまでには、聖霊による様々な訓練と養育を受ける必要があるのです。斧が水の中に沈み失われたように、私たちも罪に沈み罪に死にます。そういう私たちを、神が復活の主と共に死から生命へと甦らせてくださるのです。私たちは日々、主と共に死に、主と共に甦るのです。

第6章8節〜23節(アラム軍の敗退)

2004年6月9日(水)
本日の聖書は、私たちの目に見えない世界のことを語っています。アラムの王が密かに立てた軍事戦略が、また寝室で話す言葉までが、神の人エリシャにはすべて通じているのです。また、エリシャが主に祈り、主が従者の目を開かれると、そこに彼は「火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見」ました。――聖書は明らかに、私たちの目に見えない世界が実在することを告げています。聖霊なる神は、今の時も、倦まず弛まず働いておられます。そして私たちが信仰の眼差しを開き、神の国の戦いへと出で立つ時、万軍の主が共におられるのです。

第6章24節〜第7章20節(アラム軍の敗退)

2004年6月10日(木)
重い皮膚病を患っている四人。彼らは城門の入り口(町の外)にいて互いに言い合いました。「ここにいても死を待つのみ、町に入っても飢饉で死ぬだけだ。それならアラム軍に投降しよう」と。果して行ってみると、そこには兵士は一人もおらず、彼らは十分に飲み食いした上、金銀を持ち帰ることができたのです。・・・やがて彼らは「この良い知らせを皆に知らせねばならない」と思うようになりました。――主から教会に託されている使命は、福音(良い知らせ)を全世界に宣べ伝えることです。それは、ちょうど、一人の物乞いがもう一人の物乞いに<命のパンの在り処>を知らせるようなものなのです。

第8章1節〜29節(シュネムの婦人への返済・ダマスコでのエリシャの預言・ユダの王ヨラム・ユダの王アハズヤ)

2004年6月11日(金)
アラムの王ベン・ハダドの使者ハザエルに対して、イスラエルの預言者エリシャは不思議なことを言いました。「行って王に言うがいい。『あなたは必ず治る』と。しかし、主は彼が必ず死ぬことを私に示された。」病気は完治するが必ず死ぬ!とは一体どういうことでしょうか。更にエリシャはハザエルが恥じ入るほど、じっと彼を見つめ、そして泣き出しました。なぜか。目の前にいるハザエルが立ち上がり、イスラエルの民にこの上ない惨劇をもたらすというのです。実際ハザエルは城に帰りクーデターを実行。物語は第9章へと繋がっていくのです。――「人間の混乱と神の摂理」という名言が思い起こされます。

第9章1節〜13節(イエフの謀反)

2004年6月12日(土)
昨日はアラムに起った<ハザエルによるクーデター>でした。そして本日はイスラエルに起った<イエフによるクーデター>の開始場面です。しかし、これら二つに共通することがあります。それは「これらのクーデターのいずれもが、主なる神様のご計画として起っている」ということです。――主なる神様はご自分の御業のために人を呼び出すことがあります。その時私たちは「主は誰を呼び出すおつもりなのか」「誰が主の御業のために用いられるのか」と心に思うのだと思います。しかし主は時として、そう問うている私たち自身に言われるのです。「私はあなたを用いるつもりだ」と。主の選びと召しです。

第9章1節〜37節(イエフの謀反)

2004年6月13日(日)
イエフ革命!ここには複雑に絡み合う歴史的出来事があります。1.先にアラムで起った革命。王ベン・ハダドが側近ハザエルによって暗殺。2.そのハザエルが北王国イスラエルに攻め入り、王ヨラムは負傷。この出来事が結果的にイエフによるヨラム暗殺を助けた。即ち、イエフは負傷し弱っているヨラムを討つことができた。3.ハザエルが北王国攻め入ったことは、イエフにとっては好都合であったが、預言者エリシャにとっては痛恨の悲惨事であった。同じ出来事が、イエフ革命を助けると共に、神の人をこの上なく悲しませたのである。――8章から9章にかけての、混乱し絡み合う一連の歴史的出来事。その中にあって一際鳴り響いているのはイエフが語った次の言葉です。36節「これは主の言葉のとおりだ。」・・「人間の混乱と神の摂理」という、かの名句が思い起こされます。

第10章1節〜36節(イエフの謀反)

2004年6月14日(月)
旧約聖書に登場する人物は誰であっても<神の御前に全き義人>ではありません。信仰の父アブラハム然り、傑出した指導者モーセ然りです。そしてイエフ。彼の活躍により国中に宗教改革が推し進められ、イスラエルの宗教事情は見違えるようになりました。しかしその彼もまた「心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に従って歩もうと努めず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を離れなかった」と言われているのです。即ち彼は「べテルとダンにある金の子牛を退けなかった」のです。――宗教改革を推進する我と、金の子牛になお仕え続ける我!あのパウロの叫びが聞こえてきます。「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体からだれが私を救ってくれるのでしょう。」――その方とは、罪人の贖い主となられた義人、主イエス・キリストです。聖書全巻は「この方こそ全き義人である」と証言しています。私の罪のすべてを覆い尽くして下さる方、私の罪を洗い清めて下さる方、「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」

第11章1節〜20節(祭司ヨヤダとアタルヤ)

2004年6月15日(火)
神様が王であられるユダ王国にあって、これを我が物にしようと王家皆殺しを謀った女王アタルヤ。しかし幼子は神殿に匿われ、神の時が待たれます。そして遂に七年目。神殿に入ったアタルヤは、王座に就くヨヤダを目の当たりにし、逆転政変の一撃を食らうことになります。以来、バアル礼拝は国内から一掃されていくことになりました。――女王アタルヤによるクーデターに対して、七年越しで成し遂げられた逆転政変。それは、主なる神の御業でした。しかし、その神の御業はあくまで歴史の現実の只中で起ったものです。即ち、逆転また逆転というお家騒動の真っ只中で。「人間の混乱、神の摂理!」

第12章1節〜22節(ユダの王ヨアシュ)

2004年6月16日(水)
聖書信仰の土台には<神様はこの私を管理人に任命しておられる>というものがあります。即ち「この私の持てる物全ては神からの賜物であって、それを善き目的のために用いるよう神は私に期待しておられる」との信仰です。――本日の聖書は献金問題ですが、その根底には上記の信仰があります。神様は今日私たちに何を望んでおられるでしょうか。私があなたに授けたその賜物を○○のために用いて欲しい!その主の御心を聴き取りましょう。

第13章1節〜13節(イスラエルの王ヨアハズ・イスラエルの王ヨアシュ)

2004年6月17日(木)
不思議です。「主の目に悪とされることを行い」と評せられるヨアハズが主をなだめる、すると「主はこれを聞き入れられた」というのです。他方、主は、イスラエルがヤロブアムの罪から離れないのを御覧になって、これに対して怒りを燃やし、彼らを絶えずアラムの王の手にお渡しになりました。がしかし、先の如くヨアハズが主をなだめると、主はアラムの圧迫からイスラエルを解放してくださったというのです。筋が通らないように思える神様のなさりよう。しかしそれは、神の民の悔い改めを待ち給う主の忍耐の御姿です。

第13章14節〜21節(エリシャの死)

2004年6月18日(金)
エリシャが死の病を患っていた時のこと。ヨアシュ王が彼を訪れ、その前に泣き崩れます。「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ。」このヨアシュの言葉は、エリヤ昇天に立ち会う最中、エリシャが口にした言葉に同じです。「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ。」あなたはこの言葉を単なる比喩とお考えでしょうか。もしそうなら<天の軍勢の実在>を未だ本当には信じていないということになるでしょう。エリヤやエリシャの力は、天の軍勢の実在を知っている者の祈り、そして神の御心と一つになって戦うその戦術です。目には見えない天の軍勢が実在します。そして、神の御心に適った祈りがささげられる時、その祈りは謀り知ることのできない実りをもたらし得るのです。あなたの可能性ではなく、神の可能性によって祈り求めましょう。

第13章22節〜25節(イスラエルとアラムの戦い)

2004年6月19日(土)
列王記を読んでいると混乱に継ぐ混乱を味わわされます。しかし何と驚いたことに、主はその混乱の只中にあって「アブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約」を思い起こしてくださったというのです。それゆえに主は「彼らを恵み、憐れみ、御顔を向け、彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨てることはなさらなかった。」――私たちは明日、ただ主キリスト・イエスのゆえに、神の御顔を拝することがゆるされるのです。

第14章1節〜29節(ユダの王アマツヤ・アマツヤとヨアシュの戦い・イスラエルの王ヤロブアム二世)

2004年6月20日(日)
「彼は主の目に悪とされることを行い!(24節)」この聖書の常套句を読むと、私たちは「ああ、この王様の時代は不信仰一色だったのだな」などと思ったりします。ところが本日の聖書には、主がヤロブアム王を用いてイスラエルの領域を回復させたと出てくるのです。これは一体どういうことでしょうか。なぜ主なる神様は不信仰な王をもお用いになるのでしょうか。26節に「主は、イスラエルの苦しみが非常に激しいことを御覧になったからである」とあります。また27節には「しかし、主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言われず、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである」とあります。そして、これらすべての主の救いの御業は、主がかつて預言者ヨナを通して告げられた言葉どおりであったと聖書は言明します(25節)。――主はあなたの苦しみをご覧になります。そして主は、あなたの名を天の下から消し去ろうとは言われず、不信仰な存在さえ用いてあなたを救われるのです。主がかつて、あの十字架の上で約束して下さった通りに。

第15章1節〜38節(ユダの王アザルヤ・イスラエルの王ゼカルヤ・イスラエルの王シャルム・イスラエルの王メナヘム・イスラエルの王ペカフヤ・イスラエルの王ペカ・ユダの王ヨダム)

2004年6月21日(月)
列王記の名に相応しく、歴代の王の名とその事績が記されています。こうして聖書は<一人の人間が行った事とその影響>をキチンと書き記しているのです。そしてそのことを受け止めた上で聖書は「この王は主の目にどう映ったか」を明示するのです。――今日一日の私たちの歩み、その思い・言葉・行いのすべてが主なる神様の記憶に刻み込まれます。そして主は、今日を生きる私たちにその眼差しを注いでおられるのです。しかしそれは、ただひたすら恐ろしい大審問官の眼差しではありません。主キリストの故に、私たちを審きつつもなお慈しみをお捨てにならない、私たちの父なる神様の眼差しです。

第16章1節〜20節(ユダの王アハズ)

2004年6月22日(火)
祭司ウリヤによって建造された祭壇。それは、アッシリアの王ティグラト・ピレセルへの服従を示す<異教から導入された大祭壇>です。その建造にあたり「祭壇の見取り図とその詳しい作り方の説明書」が送られてきたと言います。――私たちは、自らの人生を天からの見取り図とその説明書(=聖書)によって築こうとしているでしょうか。それとも、主の御心とは異なる地上の見取り図と説明書に従って生きようとしているでしょうか。私たちは、厳しい現実に直面すればするほど、神の御言葉ではなく、この世の知恵に頼ろうとする傾向があります。その様にして築き上げられた私たちの業は、神の国の永遠性には結び付かないことを心のどこかで知りつつも。――私たちの人生を、神の国の永遠性へと繋がって行くことに用いて行きましょう。たとえそれが、どんなに小さな業であったとしても。

第17章1節〜41節(イスラエルの王ホシェアとサマリアの陥落)

2004年6月23日(水)
主がそのすべての預言者・先見者を通して、イスラエルにもユダにも警告されていたにも関わらず、彼らは主に聴き従うことなく、諸国の民の風習とイスラエルの王たちが作った風習に従って歩みました。その結果はどうなったか。多くの子供たちの命が犠牲になったと聖書は語ります。――日本のキリスト教会においても、神の御言葉に聴き従う礼拝建設が第一の使命です。教会での礼拝のみならず、キリスト教学校における礼拝、幼稚園・保育園・その他の施設における礼拝、そして家庭礼拝の再建が、今日急務の課題となっています。秩序が崩壊し瓦礫と化したかに見える現代社会にあって、主の御言葉に聴き従う礼拝共同体を形作っていくこと、それが私たちに主から託されている使命です。

第18章1節〜12節(ユダの王ヒゼキヤ)

2004年6月24日(木)
主に依り頼んで、異教的礼拝を廃止し、主の戒めを守り通した王ヒゼキヤ。聖書は「彼は主に固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った」と伝えます。――今日一日、主に固く信頼し、主と共に生きましょう。その様に生きる時主はあなたと共におられ、あなたが何を企てても成功へと導いて下さるのですから。

第18章13節〜第19章19節(センナケリブの攻撃)

2004年6月25日(金)
アッシリアによって北王国は既に滅ぼされ、今度は南王国の番です。ゼンナケリブは使者を遣わし降伏を迫りますが、それは荒唐無稽な脅しではありません。ハマト・アルパド・セファルワイム・ヘナやイワの諸国が既に廃墟と化しています。窮地に追い込まれたヒゼキヤ!かつての大国エジプトも今は枯れた葦にすぎません。「今お前は誰を頼みにして私に刃向かうのか」というアッシリア王の声が大きく鳴り響きます。――正にそこで祈ったヒゼキヤの祈りを深く味わいましょう。「ケルビムの上に出しておられるイスラエルの神、主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて御覧ください。生ける神をののしるために人を遣わしてきたセンナケリブの言葉を聞いてください。主よ、確かにアッシリアの王たちは諸国とその国土を荒らし、その神々を火に投げ込みましたが、それらは神ではなく、木や石であって、人間が手で造ったものにすぎません。彼らはこれを滅ぼしてしまいました。私たちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至りますように。」アーメン。

第19章20節〜37節(センナケリブの攻撃)

2004年6月26日(土)
イスラエルの神、主はこう言われる。「アッシリアの王センナケリブのことであなたが私にささげた祈りを私は聞いた。」明日私たちは、主の御前に全身全霊の祈りをささげ、主の御言葉を聴きます。その時主は、難を逃れる道を備えてくださるのです。

第20章1節〜21節(ヒゼキヤの病気・バビロンからの見舞い客)

2004年6月27日(日)
本章には、神様が私たち人間の<命の主>であられることが明示されています。また、私たちの<命の主>は、死の病をも癒す方であると告げられています。しかし注目しましょう。<命の主>がヒゼキヤの必死の懇願を聞き入れられたのは、彼が行った善いことの故ではないのです。そうではなくて、6節に主は「わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く」と宣言しておられるのです。――今や、主キリストの故に!です。主なる神様は、主キリストの故に、この都(神の民)を救いへと選ばれました。それ故私たちは、主の癒しを懇願することができるし、救いの完成の日を揺るぎなき希望をもって待ち望むことができるのです。「マラナ・タ」「主よ、来たりませ」と。

第21章1節〜26節(ユダの王マナセ・ユダの王アモン)

2004年6月28日(月)
聖書は、前王ヒゼキヤに対しては最高級の賛辞を与えていました。しかし、その子マナセに対してはこの上ない酷評が与えられます。マナセはイスラエルの民を惑わし、偶像崇拝へと導き、彼らは主によって滅ぼされた異邦の民よりも悪い事を行うに至りました。しかも、そのマナセの治世は五十五年に亘ったと言われています。――真の礼拝は、神様が求めておられるあり方で、神様を仰ぎ、聖名を崇める礼拝です。また、偶像崇拝は、私たち人間の思いに従って神様を礼拝し、人間中心に神を祭り上げることです。聖書の御言葉による神様の御支配を求め、神中心の礼拝を祈り求めて行きましょう。

第22章1節〜20節(ユダの王ヨシヤ)

2004年6月29日(火)
神殿修復事業に取り組んだユダの王ヨシヤ。その工事中、思わぬ出来事に出くわしました。大祭司ヒルキヤが「わたしは主の神殿で律法の書を見つけました」と叫んでいます。発見された律法の書は王の元に届けられ、書記官シャファンによって朗読されます。その朗読を耳にしたヨシヤ王は、衣を引き裂き、次のように叫びました。「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ。」――あらゆる宗教改革の原点がここにあります。主の御言葉に聴き従わずに歩んだ罪の歴史に対する悔い改め。主が与えて下さった聖書のみによって、主の御旨を尋ね求める民の祈り。ここからのみ、真の神殿修復が開始されるのです。

第23章1節〜30節(ユダの王ヨシヤ)

2004年6月30日(水)
「こうして彼は祭司ヒルキヤが主の神殿で見つけた書に記されている律法の言葉を実行した。」ヨシア王の礼拝改革に対する総括です。人間の思いによって形成された異教的礼拝の数々。子供の命が犠牲とされる非人間的な儀式。口寄せ、霊媒に聴き従った罪の歴史。ヨシヤはこれらすべてを律法の御言葉に従って一掃したのでした。――しかし聖書はすべてメデタシメデタシとは言っていません。26節「しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった。」主の怒りのいかに激しいことかを思わずにおれません。一方、主の御言葉による礼拝の粛清はいかに壮麗な喜びに満ちたことか。そしてその喜びの極致が過越祭でした。主の十字架の死と復活を祝う過越祭として聖餐。御国の完成を先取りして祝われる聖餐。主の聖餐において私たちは、主の激しい怒りが既に過ぎ越した喜びを祝うのです。

第23章31節〜第24章20節(ユダの王ヨアハズ・ユダの王ヨヤキム・ユダの王ヨヤキン・ユダの王ゼデキヤ)

2004年7月1日(木)
バビロン捕囚、それは旧約最大の歴史的出来事でした。ネブカドネツァル王の登場、それは神の民にとって悪夢の実現でした。ユダの王ヨヤキンをはじめ、主だった者たちがことごとく連行されていきます。主から与えられた神殿と王宮の宝物もまた、ことごとく運び出されます。世界に名立たる神殿は破壊され、神の都は廃墟と化しました。――この出来事を聖書はどう受け止めているでしょうか。それは<主の審きとして>です。神の民がその使命を忘れ、他の神々に聴き従う歩みが極まった時、主はネブカドネツァルを御自分の器として立てられたのです。この大いなる主の審きの出来事を、教会もまた忘れてはならないと思います。「主の裁きなどない」と嘯く偽りから目覚めさせられる時、あのイザヤの預言が大きく鳴り響いてきます。「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」主の降誕を預言する御言葉です。

第25章1節〜21節(エルサレムの陥落)

2004年7月2日(金)
次の信仰問答を味わいましょう。問「赦しは神が罪を大目に見ることを意味しますか。」答「いいえ。神が神でなくなるわけではありません。神は憐れみ深いのですが、神が赦す事柄そのものを大目に見るわけではありません。キリストの死と復活において、神は神が憎むもの、つまり愛に反するすべてのものをその根源から捨て去ることによって、審いてくださいます。この審きにおいて、絶望から希望が、死から命がもたらされます。神は罪人を釈放して、また彼らを敵から友に造り変えてくださいます。この妥協のない神の審きは十字架の苦難の愛に啓示されています。」十字架、主の裁きと赦しのあえる所!

第25章22節〜30節(ユダの統治者ゲダルヤ・ヨヤキンの解放)

2004年7月3日(土)
捕囚の身にありながら、主の憐れみを受けたヨヤキン。主は、その審きの只中にあっても憐れみを完全に捨て去れることはありませんでした。<試練の只中に主の光>です。


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