サムエル記上


第1章1節〜20節(サムエルの誕生)

2004年2月9日(月)
ペニナのいじめに苦しみ続けるハンナ。年に一度の神殿礼拝とあっても、彼女の魂は喜びを得ません。しかし夫エルカナの慰めに、何とか重い腰を上げたハンナでした。そして神殿に到着。「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。」・・彼女は「主の御前に心からの願いを注ぎ出し」ました。すると、ハンナに小さな変化が生じます。彼女の顔色に微かな光が見られます。そうです、苦痛に歪んでいたその表情に明るさが戻ってきたのです。しかし、ここで注目しなければなりません。ハンナが明るさを取り戻したのは“彼女の祈りが叶えられる前”だった、という事実です(サムエルが与えられるのは20節!)。ここに<祈りの不思議>があります。主に対して、思いのたけを全て注ぎ出した彼女は、主との深い交わりに入ったのです。それが彼女の明るさの秘密、喜びの源です。もはやペニナの存在は軽いものとなりました。主が彼女の大いなる見方でいて下さるからです。
今日、あなたも<祈りの不思議>に招かれています。人に向かっては愚痴でも、神に向かっては祈りになるです。私たちは今日、主ともにいます平安に生きて良いのです。

第1章21節〜第2章11節(ハンナ、サムエルをささげる・ハンナの祈り)

2004年2月10日(火)
主との深い交わりに入ったハンナ。彼女は、その祈りが叶えられる前に、明るさを取り戻しました。しかし主は、更に大いなる喜びを増し加えて下さいます。ハンナに初めての男児が本当に与えられたのです。――私たちのかじかんだ心を、主は祈りにおいて溶かし、癒して下さいます。私たちはそこで、主との命ある交わりに生きるのです。しかし主は、更に大いなる喜びを与えて下さる。目に見える<恵みの果実>が与えられます。そして、その目に見える果実とは、すべての者に与えられる神の独り子イエス・キリストです。

第2章12節〜36節(エリに仕えるサムエル)

2004年2月11日(水)
エリの息子たちの罪が明示されます。神の民の献げものを自分の思いのままにする罪、神殿に仕える女性と床を共にしたこと、忠告を耳にしても悔い改めようとしない頑なさ。これに対してみ言葉は一言しています。「主は彼らの命を絶とうとしておられた」と。
彼らの腐敗の根源はどこにあったのでしょうか。それは「主を知ろうとしなかった」ことにある、と聖書は語ります。けれども実際はどうだったでしょうか。彼らは毎日のように礼拝をささげていました。祈ってもいたし、聖書も読んでいたに違いありません。しかし本当には「主を知ろうとしなかった」、あのハンナのようには、とみ言葉は語るのです。礼拝に与ることを当たり前としてはいないか。祈ることを信仰の一徳目と勘違いしてはいないか。聖書のみ言葉に聴き従う、というのではなくて、自分の何かを高めるために聖書を利用してはいないか。主の御前に、何度でもチェックしてみる必要があると思います。主よ、どうか私たちを憐れみ、あなたとの真実な交わりの中に生かして下さい。

第3章1節〜9節(サムエルへの主の呼びかけ)

2004年2月12日(木)
本日の聖書は私たちに何を語り掛けているでしょうか。それは「主なる神様はあなたの名を呼んでいる」ということです。主はあなたを真っ直ぐにご覧になり、あなたの名を呼ばれるのです。「おい、そこのメガネ」ではありません。「そこの痩せている君」でもありません。あなたの名前を呼ばれるのです。それは<あなたの全存在を呼ぶ>ということです。――サムエルは最初、神様が自分を呼んでおられることに気が付きませんでした。それに気付いたのは大先輩のエリです。エリの存在があって初めて、サムエルは主と出会っていくのです。――教会は<主に呼び集められた者たちの群れ>です。あなたも、あの方も、この方も、主にその名を呼ばれ集められた者たちです。そして、主なる神は今日も、あなたの名を呼び、また新しい方々を教会へと召し集めておられるのです。

2004年2月13日(金)
人間関係において<相手が何を考え、何を思っているのか>それを聴くことが大切だと言われます。そしてそれは神様との関係においても同様です。即ち、祈りは自分の言いたいことを神様にぶつける一方では成立しないのです。「主よ、お話下さい。僕は聞いております。」この祈りこそ、祈りの中の祈りです。<自分の気持ちを神に>で終わることなく<神様が仰りたいことを聴き届ける>祈り、それが真の祈りです。今日一日、この祈りの奥義に生きたいと思います。「主よ、お話し下さい。僕は聞いております」と祈りつつ。

第3章10節〜第4章1節(サムエルへの主の呼びかけ)

2004年2月14日(土)
どうしてサムエルは1115節の御言葉を聞き届けることができたのか。なぜ、主の御言葉はダンからベエル・シェバに至るまで遍く鳴り響いたのか。「主よ、お話し下さい。僕は聞いております」との祈りがあったからです。明日の礼拝に備える<祈りの奥義>です。

第4章1節〜22節(神の箱、奪われる)

2004年2月15日(日)
神の民の大敗北です。死者三万四千、兵は敗走し、神の箱は奪われ、祭司ホフニとピネハスは倒れました。そしてその悲報に接したエリは、席から仰向けになって落ち、首を折って死んでしまいます。――なぜでしょうか。この度の大敗北の原因はどこにあったのでしょうか。聖書は<神の箱を戦場に持ち出したイスラエルの罪>を見つめています。即ち、勝ちたい一心で神様を利用した罪です。神の箱をお神輿のように扱うその扱いは、<自分たちの目的達成のために神を下僕にしている姿>だと聖書は見ているのです。
本日は主の日! 私たちは、自分の人生が豊かにされるために神を礼拝しているのではありません。神様が私たちのような者を召し出し、ご自身を現して下さり、主の御顔を拝することをゆるして下さったのです。そして私たちは、礼拝に与って初めて、御霊と御言葉の力により、神を利用しようとする罪の縄目から解き放たれるのです。

第5章1節〜12節(神の箱、奪われる)

2004年2月16日(月)
先の戦いでは固く沈黙を守り続けていた神の箱。しかし今、俄然その御力を発揮し始めます。私たちが自分の都合で神様を利用しようとする時、神様は固く沈黙を守られる。しかし神様は一度ご決断なさったなら、その御力を遺憾なく発揮される。ここに<神様の比類なき自由>があります。――私たちは神様に「この事をなんとかお願いします」と祈ることがあります。しかしその現実が一行に変わらないことを経験します。その時私たちは「もうどうでも良い」と諦めの心に沈むか、「なら神様には頼まず自分でやる」と開き直るかするのです。今日私たちは、神様に対する本当の信頼を回復するよう、招かれています

第6章1節〜第7章1節(神の箱の帰還

2004年2月17日(火)
<帰ってきた神の箱>です。不思議な力により、愛する我が子からどんどん引き離されていく母牛。彼女は鳴きながら後ろを振り向こうとするのですが、それが適いません。一路イスラエルへと直進するのです。神の箱は鳴きながら進む雌牛と共に帰ってきたのです!自分たちの勝利のために神様を利用したイスラエルの罪、それ故に奪い取られた神の箱。しかしその大敗北により、その名が地に落ちたのはイスラエルの民だけではありません。イスラエルの神なる主の御名も同時に汚されたのです。けれども主は敢えて、民と共なる敗北の道を選ばれました。――ペリシテに奪い去られ、行き先で弄ばれる神の箱。その姿に十字架の主の御姿が重なります。そして今、神の箱は雌牛と共に、自力で帰ってきました。その姿に復活の主の御姿が重なります。帰ってきた神の箱!それは、私たちの罪のために死に、その罪と死に勝利された<復活の主イエス・キリスト>です。

第7章2節(イスラエルの指導者サムエル)

2004年2月18日(水)
「イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた。」それは、こぞって主に立ち返ろうとしているイスラエルの心です。彼らは今、主を慕い求め、主の御元に返ろうとしているのです。しかし注目しましょう。この時このところに至るまでに<二十年の歳月>が流れているのです。そしてこの二十年は、主を求めず、自分たちだけで歩んだ年月と受け止めるべきでしょう。けれども、その一方でこの二十年は、実は<神の忍耐の二十年>であったのです。イスラエルの一人一人が、心から主を慕い求め、御元に立ち返ってくるのを、主御自身が忍耐して待っておられたのです。――「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない(ヘブライ315)。」アーメン。

第7章3節〜17節(イスラエルの指導者サムエル)

2004年2月19日(木)
士師の主な役割は、外敵と戦いイスラエルを守ることです。ギデオンはミディアン人と戦いました。サムソンはペリシテ人と、そして本日のサムエルも同じ宿敵と戦うのです。しかし注意しましょう。士師サムエルの武器は槍や剣ではありません。彼の武器は<祈り>です。しかもそれは<主に対する悔い改めの祈り>です(注「主よ、敵を倒して下さい」との祈りではありません)。「サムエルは命じた。『イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。』人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し、その所で、『私たちは主に罪を犯しました』と言った。」今や、主イエスが私たちのために祈る大士師です。主は、私たちのために、私たちに先んじて、悔い改めの祈りに生きて下さいました。そしてその主の祈りの極みが、あの十字架です。父なる神はそこで、御子の祈りを受け入れられました。私たちは、大士師イエスに導かれ、聖霊の助けにより、父なる神の御元へと今日立ち返ることができるのです。

第8章1節〜5節(民、王を求める)

2004年2月20日(金)
5節「今こそ、他のすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立てて下さい。」押し迫る外敵ペリシテの脅威。傑出した指導者の不在。不安定な国内情勢。そこで長老たちは叫んだのです。「今こそ、他のすべての国々のように!」と。ここに、イスラエルの決定的な罪があります。彼らは苦しい状況の中で、主の御心を尋ねることなく、知恵ある国々に見習ったのです。――私たちもまた、苦しい時にこそ、人間の声に耳を傾け、助けを人から得ようとしてもがきます。けれども忘れてはならないのです。主の御心に聴くことを。私たちは今日一日、主の御心を聴き届けるよう、祈りに招かれているのです。

第8章6節〜9節(民、王を求める)

2004年2月21日(土)
サムエルは祈りの士師です。「主よ、お話下さい。僕は聞いております。」あの幼年時代の祈りは老年になった今も生きています。――明日私たちもまた、主の御心を聴くのです。

第8章10節〜21節(民、王を求める)

2004年2月22日(日)
主なる神が裁きを行い、主なる神が陣頭に立って進み、主なる神の戦いを戦われる。その王なる神の下に歩むのが<神の民の歩み>です。しかしこの度のイスラエルは、周辺諸国に見習い、どうしても人間の王をいただきたいと叫ぶのです。それは、主なる神を捨て、人間の王に裁きを行ってもらい、人間の王が陣頭に立って進み、自分たちの戦いを自分たちだけで戦う、ということです。サムエル記は、主なる神様を捨てて、人間の王をいただく神の民の罪を描きつつ、真の王の出現を希求しているのです。――しかし今や、全人類に真の王が与えられました。十字架と復活の主イエス・キリストです。主イエスが裁きを行い、主イエスが陣頭に立って進み、主イエスの戦いを戦って下さる。これほど心強いことがあるでしょうか。私たちは、その主の戦いに召され、これに参与している者たちです。この新しい一週の歩み、私たちは王なる主の御後に従って歩いて行けば良いのです。

第9章1節〜27節(サウル、油を注がれて王となる)

2004年2月23日(月)
サウルの召命物語です。主が既にサウルを王に選んでおられ、彼に油を注いで主の御用のために召そうとしておられます。そしてその御用とは「私の民をペリシテ人の手から救う」ことです。――キリスト者は、主に命召され、主の御用のために立てられている存在です。主があなたを選び、あなたに聖霊(油)を注いで、主の御用のために用いようとしていられるのです。今日一日、御国を形作る<生ける石>として、主と共に歩みましょう。

第10章1節(サウル、油を注がれて王となる)

2004年2月24日(火)
キリスト者はこの世にあって、神に使える僕であると同時に、神によって立てられた王です。以下の信仰問答を繰り返し味わい、暗誦し、主によって新しくされたいと思います。(問)なぜあなたはキリスト者と呼ばれるのですか。
(答)なぜなら、私は信仰によってキリストの一部となり、その油注ぎに与っているからです。それは、私もまた、この方の聖名を告白し、生きた感謝の献げ物として自らをこの方に献げ、この世においては自由な良心をもって罪や悪魔と戦い、ついには全被造物を、この方(キリスト)と共に永遠に支配するためです(ハイデルベルク信仰問答:問32)。

第10章1節〜16節(サウル、油を注がれて王となる)

2004年2月25日(水)
油注ぎを受けたばかりのサウルに、サムエルが語りかけます。「主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。」あなたは別人のようになる! それは9節に「神はサウルの心を新たにされた」と言われているのと同一内容だと思います。では、サウルの心はどう新しくなり、彼はどう生まれ変わったのでしょうか。それは「主なる神様がこの私を王に立てられたのだ」と確信することができた、ということです。「自分が、自分が」とばかり思っていた心が「主なる神様がこのような私を」という心に変わったのです。そこには、神の眼差しの下にある自分を発見した者の<軽やかな心>があります。――主なる神様は、主キリストのゆえに、あなたを神の国の世継ぎとしておられます。あなたは、決してくだらない存在ではありません。御子キリストのゆえに、神の子です。今日一日、神の国の世継ぎとして、神の子の誇りに生きましょう。主が、あなたを王に立てておられるのですから。

第10章17節〜27節(サウル、油を注がれて王となる)

2004年2月26日(木)
ここに二種類の人々が登場します。一つは「主なる神がサウルを王に立てられた」と信じて家路につく人々です。聖書は彼らのことを「神に心を動かされた勇士たち」と呼んでいます。今一つは「こんな男に我々が救えるか」と言い合ってサウルを侮った人々です。聖書は彼らのことを「しかしならず者は」と呼んでいます。――おそらく「荷物の間に隠れるような人物が、本当に王としてやっていけるのか」との人物評価は、両者に共通であったろうと思います。しかし決定的なところで両者は異なりました。即ち「主なる神様が・・」という一点です。「ならず者」とは<天からサウルに降りている一筋の光>を見ることができない人々のことなのです。――今日一日、「主なる神様が」という世界に生きたいと思います。主なる神様が与えてくれた我が子、我が家族。主なる神様が「共に生きよ」と言って与えておられる隣り人。そして、主なる神様によって立てられているこの私です。

第11章1節〜11節(サウルの勝利と即位)

2004年2月27日(金)
意外です。神の霊がサウルに降った時、彼は怒りに燃えた、というのです。普通私たちは神の霊が降ったなら、力を受けるとか、しなやかな心に変えられる等と考えるのではないでしょうか。ところがサウルは怒ったのです。しかもそれは、彼の怒りであるよりは神御自身の怒りなのです。神様は一体何に怒っておられるのでしょうか・・。一つはアンモン人です。御自分の民を侮辱し続けるアンモンに対して主は怒っておられます。しかし今一つはイスラエルに対してです。彼らは今、泣き寝入りの敗北主義に陥り、主が共におられることを、自分たちが神の民であることをスッカリ忘れ去っています。主は、そのイスラエルの不信仰に対して激しく怒っておられるのです。――聖霊は時として、私たちをどやしつけて下さるのです。あなたがたは自分たちを一体何者だと思っているのか、と

第11章12節〜15節(サウルの勝利と即位)

2004年2月28日(土)
今日は主が勝利された日。主の大いなる祝いの日。私の力によってではなく、主の御力によって大いなる勝利がもたらされた日。――明日の主の日は、その祝いのための日です。

第12章1節〜25節(サムエルの告別の辞)

2004年2月29日(日)
ここに記されているのは<時代を画する一大説教>です。イスラエルはこれより士師時代を過ぎ越し、いよいよ王国時代へと入っていきます。その時代の狭間に立ち、サムエルは今その口を大きく開くのです。――この記念碑的説教は一体何を語っているでしょうか。@主は、あのエジプト脱出の日以来今日に至る迄、あなたがたを真実に導いてこられた。Aにもかかわらず、あなたがたは主を捨てて、人間の王を求めた。Bしかし主は、あなたがたの悪い願いを入れて、あなたがたに王を与えられた。――新時代は<罪の指摘とその罪に対する神の憐れみ>を確かめることから始まります。そして、ここで最も注目すべき御言葉は2223節です。「主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。私もまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。」
主なる神様は、あなたを、あなたの兄弟姉妹を、御自分の民と決めておられるのです。そして、その大いなる恵みは一重に、主イエス・キリストの執り成しの祈りによるのです。

第13章1節〜23節(ペリシテ人との戦い)

2004年3月1日(月)
サムエルは人間的な判断から大変な事をしてしまいました。・・今や敵ペリシテが目前に迫ってきている。しかしサムエルが約束の期日になっても一行に現れない。我が兵は次第に自分のもとから散り始めている。・・そこでサウルは、遂に神への献げ物を献げてしまったのです。――お分かりになるでしょうか。神への献げ物を献げるのは祭司の務めなのです。ところがサウルはその王権を乱用して、祭司の務めを自分勝手に執行してしまいました。なぜなら、出陣前の儀式なしにはイスラエルは戦い得ず、兵士の士気を保ち続けることができなかったからです。――ここでサウルがした事は、教会の教師(牧師)でない人が、主日礼拝で勝手に説教したり、洗礼や聖餐を執行したりすることと同じです。要するに、神によってその職に立てられていない者が、自分勝手な判断でそれを行ってしまう事なのです。――この自分には、主からどのような役割が与えられているのか。そのことを良く弁えつつ、信仰生活を歩んでいきたいと思います

第14章1節〜15節(ヨナタンの英雄的な行動)

2004年3月2日(火)
本章が描くヨナタンの信仰とは何でしょうか。@6節「主が我々二人のために計らって下さるにちがいない。」この言葉は「主が我々のために必ず行動されるだろう」という意味です。即ちヨナタンは、これからの自分たちの歩みの上に、主が必ず何かをして下さるに違いないと言っているのです。A更に6節後半は「多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては何の妨げにもならないからである」です。ヨナタンは「この戦いは主の戦いである」と信じているのです。Bしかしその主の戦いを、彼は独りで戦うのではなくて、信仰の友と共に戦うのです。――今日、主はあなたの戦いに伴われ、行動して下さいます。なぜなら、あなたの戦いは、あなたの戦いである以上に主の戦いなのです。あなたは、信仰の兄弟姉妹たちと共に、御国の兵士として召されているのです

第14章16節〜52節(ヨナタンの英雄的な行動)

2004年3月3日(水)
44節「ヨナタン、お前は死なねばならない。そうでなければ、神が幾重にも私を罰してくださるように。」このサウルの言葉が真実な言葉かどうかが急所です。私は「このサウルの言葉には真実な信仰を見出すことはできない」と解釈しています。なぜなら「ヨナタン王子は死ぬべきではない」と主張する兵士の声を、彼は即座に受け入れているからです。サウル王の最大の問題は、人の心を第一とし、神の御心を第一としない点にありました。今日あなたは、自分と人の心を第一として歩むでしょうか。それとも、神様の御心を第一に歩むでしょうか。私たちキリスト者に与えられた幸いは、主キリストと心を一つにして歩むことです。主の御心を尋ねつつ、今日一日、主と共に歩みましょう。

第15章1節〜16節(アマレク人との戦い)

2004年3月4日(木)
主は「一切を滅びし尽くせ」と言われました。しかしサウルは、アガグ王と値打ちある戦利品を持ち帰りました。なぜサウルはアガグを生け捕りにするのでしょうか。それは自分たちの大勝利(勇姿)をイスラエル中に誇示するためです。またサウルはなぜ、戦利品を持ち帰るのでしょうか。それは、戦った兵士たちへのご褒美であり、彼らの英気を養うためのものです。これらから分かることは、サウルという王様は人の心が良く分かる人物だったということです。しかし聖書は鋭く見抜いています。サウルは、人の心は分かっても、神の御心を無視している、と。――今日一日、主は私たちに「どうあれ」と言っておられるのでしょうか。人の声に耳を傾ける前に、主の御声に聴き従う一日でありたいものです。

第15章17節(アマレク人との戦い)

2004年3月5日(金)
現代日本に広がる病をこの一節は示していると思います。即ち「私は取るに足らぬ人間だ」と呟く心です。「私なんて、生きていても死んでいても大差ない」と囁く心です。その様な私たちに対して聖書は語ります。「あなたは、神によって命造られた人間。神があなたを立てておられる。主イエスは、十字架の死に至るまで、あなたを愛された」と。そうです。あなたは取るに足らぬ人間ではありません。神の愛の対象、主に赦された人間です

第15章18節〜23節(アマレク人との戦い)

2004年3月6日(土)
2223節はサムエル記の中心聖句です。これを繰り返し朗読し、明日に備えましょう。

第15章24節〜35節(アマレク人との戦い)

2004年3月7日(日)
一見サウルは悔い改めているようですが、そうではありません。彼は「私は主を礼拝します」と繰り返していますが、それは「僕は良い子になります」と言うのに似ています。サウルにとって礼拝とは<主にゆるされて与るもの>ではなくて<信仰者の徳目の一つ>になっているのです。――今日は主の日!父なる神は、ただ御子キリストのゆえに、私たちの罪を赦し、礼拝に与らせて下さいます。主の日ごとに、聖霊のご臨在に与り、主との交わりに生きることがゆるされている、これこそ、御国の王子に与えられている特権です

第16章1節〜23節(ダビデ、油を注がれる・ダビデ、サウルに仕える)

2004年3月8日(月)
本日の御言葉が語ることは何でしょうか。それは、主なる神様が新しい御業を開始されるということです。今や主は、イスラエルを統治する王として、サウルを捨てダビデをお立てになる。それを主はご決断された。しかし注目しましょう。この<主の新しい選び>が起っている一方で、歴史の現実は一向に変っていないように見えるのです。サムエルは、サウルのことを未だに嘆いています。サウルがもはや主の御言葉に聴き従わなくなってしまったからです。しかもなお、そのサウルは厳然として王であり続けます。また新しく選ばれたダビデは、エッサイの末息子、イスラエルの一坊やに過ぎません。そしてこの後、ダビデが実際に王として立つまでには長い歳月を要するのです。――私たちは、今自分が置かれている現状を思う時に、人間による自分勝手な支配、動きそうもない現実、深く嘆かずにおれない実情があると思います。しかしそのような私たちに、主なる神様は言われるのです。「いつまであなたは、――のことを嘆くのか」と。「私は既に決断した。私の新しい業を開始する」と。私たちは今日、主に向かって頭を挙げ、歩み出しましょう。

第17章1節〜30節(ダビデとゴリアト)

2004年3月9日(火)
巨人ゴリアトの自信はどこから来ているのでしょうか。それは、自分の力の絶大さ、戦士としての経験の豊富さからです。ではイスラエルの恐れはどこからでしょうか。それは、自分たちの非力さ、真の戦士の不在ゆえです。しかし両者に共通していることがあります。それは「自分たちが神の支配の下に置かれていることをスッカリ忘れている」という点です。ゴリアトは自分の力を誇っていますが、その力が神の賜物であることを知りません。またイスラエルはこの巨人を恐れますが、自分たちもゴリアトも、神の支配の下に置かれていることを忘れてしまっています。――頭では分かっているのです。神が世界をご支配しておられることを。しかし試練の日に、それが何処かへ飛んでしまっています。――今日あなたを恐れさせるものは何ですか。しかしそれも、主の恵みの支配下にあるのです

第17章31節〜58節(ダビデとゴリアト)

2004年3月10日(水)ダビデとゴリアト
巨人ゴリアトとの一騎打ち!果たしてダビデに勝機はあるでしょうか。長兄エリアブは言います。「何をしにここへ来たのか」と。また王サウルは双方の戦力を分析し、勝ち目なしと結論付けます。更には宿敵ゴリアトもまた「捻り潰してやる」と豪語しています。しかし、唯一ダビデだけがここに勝利を確信しているのです。――このダビデの確信の根拠は何でしょうか。それは、ゴリアトは生ける神の戦列に挑戦している、ということです。この戦いは<ゴリアトvsイスラエル>ではなく<ゴリアトvs主なる神>だとの確信です。私たちの人生の歩みの上に、時としてゴリアトが立ちはだかります。それは、私たちを恐れさせるに十分であり、私たちはしばしば御国の勝利を見失ってしまいます。しかしそのような私たちの前に真の勇者が立っておられます。私たちのために罪と死の力と戦い、それに勝利された主キリストです。この方の下で、私たちは常に勝ちてあまりあらん!

第18章1節〜30節(ダビデに対するサウルの敵意)

2004年3月11日(木)
巨人ゴリアトに対するイスラエルの大勝利!ダビデは一躍ヒーローとなります。ヨナタンの魂はダビデに結びつき、民衆はダビデの凱旋を喜び歌います。しかしここに一人、全てが面白くない人物がいます。この国の王サウルです。ダビデに対して、彼の嫉妬は激しく燃え上がります。しかしなぜ、サウルはダビデを妬みの目で見るようになったのでしょうか。自分よりダビデの方に民の人気が行ったから。自分よりダビデの方に戦う才能があるから。自分よりダビデの方に人望が集まっていくから。けれども決定的なことは、28節「サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて・・。」――主が彼と共にいることを喜べない心がここにあります。主が彼と共にいることが妬ましくて仕様が無いのです。そして正にこの心が、主イエス・キリストを十字架へと追いやりました。主なる神が彼と共におられる事実を、彼の存在もろとも消し去ろうとしたのです。――十字架と復活の主イエスこそ、嫉妬に狂サウルの唯一の救い主です。そして、この私たちの救い主であられます

第19章1節〜17節(ダビデの逃亡)

2004年3月12日(金)
ぎりぎりの生活です。権力者が嫉妬の炎に燃え上がり、襲い掛かってきます。しかし狂った王はダビデを捕らえることはできません。主がダビデと共におられるからです。そのぎりぎりの歩みの中で、自分に見方してくれる存在が与えられます。ヨナタンそれであり、妻ミカルがそうです。主が私たちと共におられる(インマヌエル)!とはそういうことです

第19章18節〜24節(ダビデの逃亡)

2004年3月13日(土)
主なる神の御下に逃れる者は、追っ手に捕らえられることがありません。聖霊があらゆる仕方で、彼を保護なさるからです。――私たちは明日、主の御下に逃れます。

第20章1節〜4節(ダビデとヨナタン)

2004年3月14日(日)
ダビデとヨナタンの関係はなかなか微妙です。ダビデは新しい王として既に神に選ばれています(歴史の現実はまだそうなってはいませんが)。一方、ヨナタンは神に捨てられた王サウルの息子です。自分の父親はなお厳然と力を持っており、廷臣ダビデに激しく嫉妬し、憎しみの炎を燃え上がらせています。普通の見方からすれば、二人が親友である可能性はまずありません。ところが聖書は、ここに二人を無二の親友として描くのです。なぜでしょうか。それは、ヨナタンが、主がダビデと共におられることを見て喜び、ダビデを信頼し愛しているからです。またダビデの方も、主がヨナタンと共におられることを知っており、彼の信仰に信頼を置いているからです(1467)。――主の教会に生きる者たちの姿がここに示されています。主キリストの教会は<罪赦された罪人の集い>です。私たちはお互いの存在を「あなたは主に罪赦された存在、神の愛の対象」と信じ得るのです。

第20章1節〜42節(ダビデとヨナタン)

2004年3月15日(月)
親友同士が、その信頼関係や互いの愛にも関わらず、その間を引き裂かれ、別離を余儀される。もはや二人の間の信頼関係も愛も、互いを繋ぎ止めることはできない。その様な事態に立ち至った時、この二人は、主なる神様の下で契約を結びました。自分たちの間に主が永久におられる、そういう交わりを結んだのです。――私たちは、兄弟姉妹たちと共に<主を中心とした交わり>を造っているでしょうか。主は脇に置いておいて、人間的な好みによってのみ互いを結び合わせてはいないでしょうか。主がお互いの間にドンといて下さる、そういう交わりを祈りつつ造っていきたいと思います。聖霊が造って下さるこの交わりは、永遠に、私たちを主にあって結び合わせるのですから。

第21章1節〜2節(アヒメレクのもとでのダビデ)

2004年3月16日(火)
ダビデはすべてを喪失しました。引き裂かれた友情、新婚生活が突如逃亡生活に、結果地位も名誉も財産もすべて失ってしまいました。その時ダビデはどうしたでしょうか。彼はその人生最大の危機に、祭司アヒメレクの元を尋ねました。祭司を尋ね、匿ってもらうと共に<主なる神の示し>をダビデは求めたのです。「主よ、私は一体これからどうして行けば良いのでしょうか。」――私たちは、人生の危機に直面する時、何を求めてどこへ行くでしょうか。聖書は「神の元に逃れ、神の示しを受けよ」と語っています。それは、教会の礼拝であり、牧師の元であり、長老の元であり、兄弟姉妹の元です。

第21章1節〜第22章4節(アヒメレクのもとでのダビデ・アドラムとミツパにおけるダビデ)

2004年3月17日(水)
ダビデの逃亡生活は何よりも<身の安全>を確保しなければなりません。また同時に<パン>と<武具>をも調達しなければなりません。しかし私たちは決して忘れてはならないと思います。ダビデが一番必死に求めたものは<神の御心>だったことです。「ダビデは・・・モアブの王に頼んだ。『神が私をどのようになさるか分かるまで(223)』」――私たちの信仰生活を導く祈りがここに示されています。「神が私をどのようになさるか分かるまで。」この祈りに、主は必ず応えて下さいます。それが何時なのかが分からないところに私たちの辛さがありますが。しかし、主は必ず私たちの祈りに誠実に応えて下さる方です。――今日一日、この祈りを携えつつ、主イエスと共に歩みたいと思います。

第22章5節〜23節(アドラムとミツパにおけるダビデ)

2004年3月18日(木)
8節と17節をご覧下さい。サウルは「私の耳に入れもしない」「私の耳に入れなかったからだ」と繰り返しています。この言葉に、私たち人間の心にある不安と支配欲がむき出しになっています。サウルは今や、ダビデに対する憎しみの塊と化し、すべてを掌握していなければ不安で仕方が無いのです。――その狂える王の前に立ち、主の御前で発言したのが祭司アヒメレクです。彼は王サウルに対して「あなたの家臣の中に、ダビデほど忠実な者がいるでしょうか」と直訴します。周囲の者たちは「これはまずい」と直感し、王の顔色を伺う。しかしアヒメレクは発言を続け、主の御前に誠実な証しを立てました。結果、祭司一族は一人を除いて皆殺しとなりました。――ここに殉教者の血が流されています。神の御心を無視し、不安と支配欲に満ちた魂がとんでもない事をやってのけたのです。
この受難節の折り、主のご受難と十字架の御苦しみを思わずにおれません。主は、殉教者の血を慰め得る唯一のお方であり、不安と支配欲に満ちた魂を癒し得る<真の医師>です

第23章1節〜5節(ケイラとジフにおけるダビデ)

2004年3月19日(金)
本日の聖書には現実的・具体的な流れがあります。@困った事が起ったとの知らせ。Aダビデ、主の御心を求めて祈る。B主はその御心を示される。Cダビデ、主の御心を兵に伝える。しかし兵は「そんなことは出来ない」と言い、ダビデもまた「そうかもしれない」と思う。Dそこでダビデ、再び主の御心を尋ね求めて祈る。E主は勝利を約束。F最後、主のみ言葉が成就する。――ダビデの生涯に学ぶことは、人生の危機に際して、逃亡生活の最中に、事件に対応する時に、いつも「あなたの御心を示して下さい」と祈っていることです。そして、唯一そこに、人生の突破口が開けてきた、ということです。

第23章6節〜14節(ケイラとジフにおけるダビデ)

2004年3月20日(土)
「サウルは絶え間なくダビデをねらったが、神は彼をサウルの手に渡されなかった。」私たちは、この御言葉が事実であると信じているでしょうか。――あなたを襲う不安や恐れがあります。しかしそれらは、主の礼拝に与る者を捕らえることはできないのです

第23章15節〜28節(ケイラとジフにおけるダビデ)

2004年3月21日(日)
好対照な二つの人間関係。一つはヨナタンとダビデのそれ。ヨナタンは逃亡の身にあるダビデを励ましますが、その励まし方は「神に頼るように」というものです。だからこそ「恐れることはない」との励ましです。一方、王サウルとジフの人々に見られる人間関係。ジフの人々は「あなたの敵は私たちの敵」と申し上げて王に忠誠を示します。すると王は「あなたたちは私を思ってくれた」と喜びます。しかし、サウルの、この喜びの内実は何でしょうか。サウルもジフの人々も、神様を中心とした繋がりを造っていません。「あの敵は憎い」と言い合い仲間同士のようですが、この人々は神のことを思ってはおらず、結局自分の事しか考えていないのです。その人間関係がいつか破綻をきたすのは必然です。――あなたは今週一週間、人間の思惑によって人との関係を作り上げますか。それとも、神様を中心とした人との交わりを造りますか。2728節が示す<ペリシテ人による突然の介入>は決して偶然ではありません。神様がその大いなる御手をもってダビデとその兵をお救いになったのです。「そのとき!」との27節の御言葉が鳴り響いています。

第24章1節〜7節(エン・ゲディにおけるダビデとサウル)

2004年3月22日(月)
千載一遇のチャンスです。自分を散々苦しめてきたサウルが、独りで洞窟に入ってきました。そしてその王が、用を足すために屈み込みます。これにダビデの家臣は思わず囁く。「主があなたに『私はあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです」と。そこでダビデは立ち上がります。しかし結果は、王の上着の端を密かに切り取っただけでした。――ダビデはなぜ、サウルに止めを刺さなかったのでしょうか。なぜダビデの心に今、後悔の念が湧き上がるのでしょうか。それは<サウルは主に油注がれた者>だからです。サウルがどんなに腐敗しようと、憎悪に狂おうと、主が彼を王にした事実は揺ぎ無く立つのです。――あなたが今日出会うであろう人々は、そのお一人一人が<神に造られた存在>です。また、教会の兄弟姉妹たちは<主に聖霊を注がれた存在>です。そしてキリスト教会は、私たち人間が立てた団体ではなくて、神が御子の血によって贖い取られた<神の教会>です。ダビデの信仰に生きましょう。

第24章8節〜23節(エン・ゲディにおけるダビデとサウル)

2004年3月23日(火)
主が裁き手となって、私とあなたの間を裁き、私の訴えを弁護し、あなたの手から私を救って下さいますように。」キリストに従う者として生きる時、世にあって私たちは矛盾を経験し、損をすることがあります。或いはまた、悔しさを味わうこともあるでしょう。その時私たちは祈るのです。16節のダビデの祈りを。全てを知っておられる主の御前で。

第25章1節〜35節(サムエルの死)

2004年3月24日(水)
注目すべきはアビガイルの信仰の言葉です。ダビデに直談判する彼女は、ダビデが忘れ去っていた信仰の言葉を口にします。「あなたを引き止め、流血の災いに手を下すことからあなたを守って下さったのは主です。」「人が逆らって立ち、お命をねらって追い迫って来ても、お命はあなたの神、主によって命の袋に納められ」ています。「また主が約束なさった幸いをすべて成就し、あなたをイスラエルの指導者としてお立てになるとき・・」命乞いをするアビガイルの、見事な信仰の言葉です。そして、これを聞いたダビデの反応もさすがです。「主は、今日、あなたを私に遣わされた。あなたの判断はたたえられ、あなたもたたえられよ。私が流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた。」主の恵みの真理が語られ、聴かれる時、私たちはあらゆる災いから逃れられるのです。

第25章36節〜44節(サムエルの死)

2004年3月25日(木)
指導者サムエルを失い、なお逃亡生活を続けねばならないダビデ。そのダビデに対して、指一本貸そうとしなかった大富豪ナバル。ダビデの心に復讐の炎が燃え上がりますが、妻アビガイルの英断と迅速な行動により、ナバルは死を免れたのでした。しかし、十日ほどの後のこと、ナバルの身に予想だにしなかった事が起こります。「主はナバルを打たれ、彼は死んだ。」ここに、善と悪を正しくお裁きになる<神様の姿とその御業>が明示されています。――主イエス・キリストの十字架は、神の憐れみのみならず、神の義が成っている所です。今日一日、主の十字架の下で、神の御旨に適う善き業に励みましょう。

第26章1節〜25節(ダビデ、サウルを寛大に扱う)

2004年3月26日(金)
本章は24章の出来事と瓜二つです。一つの出来事に二つの言い伝えがあるのでは?と思われる程です。けれどもそれだけに、真に悔い改めようとしないサウルの姿が浮き彫りになってきます。先の洞窟で、ダビデに泣いて詫びたはずのサウルは、またもやダビデを追跡しているのです。そしてこの度もサウルは「私は愚かであった。大きな過ちを犯した」と告白しますが、その言葉に真実は感じ取れないのです。・・一方ダビデはどうでしょうか。注目は12節「見ていた者も、気づいた者も、目を覚ました者もなかった。主から送られた深い眠りが彼らを襲い、全員眠り込んでいた。」サウルを生かすも殺すもダビデの意思次第。神様はダビデに生殺与奪の自由を与えられたのです!――今日、人の欠点や失敗が明らかになった時が勝負です。その時に、その人を生かすか殺すかが主に問われています。そして私たち自身、十字架の主に寄りすがり、神に立ち返るよう招かれているのです。

第27章1節〜12節(アキシュのもとに滞在するダビデ)

2004年3月27日(土)
ダビデの逃亡生活も最終段階に至り、宿敵ペリシテに身を寄せるしかありません。アキシュは言います。「いつまでも私の僕でいるだろう」と。しかし主は計画を開始されます

第28章1節〜6節(サウル、口寄せの女を訪れる)

2004年3月28日(日)
本日の56節は、単純な、しかし私たちが忘れがちな事実を告げています。それは、神様の御言葉は当然ように与えられるものではない、という事実です。即ち、私たちがどんなに願っても、神様が何もお語りにならないということがあり得るのです。神様が決心された時にはじめて、神様は御言葉をお語りになる。私たちが熱心に求めさえすれば、御言葉は何時でも与えられる、というわけではない。その事実を56節は知らせているのです。今日は主の日。もし「礼拝でみ言葉が与えられた」と感謝できるなら、それは聖霊がもたらして下さった特別な恩寵です。しかしもし「み言葉が何も聞こえてこなかった」と言う時には、礼拝に望む自らの態度を振り返ってみる必要があるのかも知れません。腐敗に傾く教会のために、説教者のために、祈ることが求められているのかも知れません。しかしいずれの場合も、私たちは共に祈り続けて行きたいのです。「主よ、お話ください。僕は聞いております」と(サムエル記上39)。

第28章7節〜12節(サウル、口寄せの女を訪れる)

2004年3月29日(月)
聖書が口寄せや魔術師を厳禁しているのには理由があります。それは、@将来の事を告げようとするため、A死後の世界に通じているとされているため、この二つの理由によります。聖書では@もAも「ただ神様の御手に内にあること」であって、人間が勝手にそれを操作してはならないからです(申命記189以下)。――その点からすると、サウルが口寄せや魔術師を一掃しているのは信仰粛清運動のようにも映ります(3)。しかし実際はそうではなかったことが程なくして露見します。ペリシテの来襲に恐れ戦くサウルは、主に託宣を求めますが、主は何の返答もお示しになりません。そこでサウルは、自らが厳禁したはずの口寄せの所へお忍びで赴いて行くのです。――すべてが自分の都合です。そして彼は神様を本当には信頼していないのです。・・あなたは今日という一日を、誰を頼りに生きるでしょうか。自分でしょうか。他者でしょうか。生き甲斐でしょうか。主は今日、サウルの姿を示しつつ、私たちが真に悔い改めて主に立ち返ることを待っておられるのです

第28章13節〜25節(サウル、口寄せの女を訪れる)

2004年3月30日(火)
「なぜ私に尋ねるのか。主があなたを離れ去り、敵となられたのだ。」こんな事が実際にあり得るだろうか。耳を疑いたくなる、目を背けたくなる、サムエルの言葉です。しかしこの16節は真剣に聴くべきみ言葉だと思います。神様が私を離れ去り、私の敵となられることがあり得る!そのことを真剣に受け止める時、即ち自らの滅びを思う時、十字架の死を遂げられ、復活された主イエスのみが、私たちの救い主であることを示されるのです。

第29章1節〜11節(ダビデ、ペリシテ軍から離脱する)

2004年3月31日(水)
遂にイスラエルと激突する日がやってきました。ダビデは今敵陣に加わり、ペリシテ軍の一員として出陣しようとしているのです。しかしその時、「待った」がかかりました。武将たちがダビデを一緒に連れて行くわけにはいかないと言い出したのです。アキシュは「この男は信頼できる」と説明しますが通用しません。そこで彼は、ダビデをなだめつつツィクラグに帰すのでした。――ここで一体何が起こっているのでしょうか。それは、神の摂理による不思議な導きです。ダビデは知恵を用いて敵国に逃れてきました。結果、同胞との激突を余儀なくされました。そして何よりも、主によって王に立てられるであろう彼の召命が危険に晒されています。しかし正にその時です。聖なる「待った」がかかったのは。それは単なる偶然ではなく、主なる神がダビデの行く手に立ちはだかり、その道を翻させられたのです。――今日あなたは、人の思惑が渦巻く中を歩まれるのかも知れません。しかしその只中に、あなたを導く主なる神が働いておられるのです。

第30章1節〜20節(アマレク人に対するダビデの出撃)

2004年4月1日(木)
ダビデの生涯は、主が共にいて下さった生涯でした。しかし彼は今、人生最大の苦境に立たされています。アキシュの指示に従い、ティクラグに戻ってきてみれば、そこは一面焦土と化していました。家屋、妻子を奪われた兵士たち。サウルの憎しみを背に、逃亡生活を共にしてきてくれた従者たち。その彼らの苦しみが殺意と変わり、ダビデに突き刺さります。彼は今死の一歩手前なのです。――私たちはインマヌエル信仰を勘違いしがちだと思います。どうしても「神様が共にいるならどんな良い事があるのか」と思ってしまうのです。しかしダビデを見てみましょう。6節「ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。」四面楚歌の苦境に出会って下さる神がここにおられます

第30章21節〜30節(アマレク人に対するダビデの出撃)

2004年4月2日(金)
戦いは勝利に終わり、奪われたものすべては略奪者の手から取り戻しました。しかしここに問題が生じます。一部の兵士たちが「戦いの際、落伍した者には戦利品を与える必要はない」と言い出したのです。ダビデは言います。「今回の戦いで勝利をもたらしたのは主である」と。――喜びの日に犯す罪があるのです。すべての栄光を主に帰しましょう

第31章1節〜13節

2004年4月3日(土)
一つの時代が終わりました。サムエル記上は、初代サウル王の死をもって巻を閉じます。民の罪により始まった王制の導入。若き日の初々しいサウル王。才知に長けた武将。しかし落日のごとく神から離れて行った指導者。ダビデに対する憎しみの果てに戦死した王。サムエル記は、人間の罪を包まず描き出すと共に、主なる神の不抜の忍耐と、民を見捨てないと決心しておられる主の愛を啓示しています。――明日私たちは、その主を拝します。


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