士師記


第1章1節〜36節(カナンの征服)

2004年1月10日(土)
士師時代は不信仰と悔い改めの時代です。この1章には戦勝記録が記されていますが、そこには既に暗雲が散見されます。先住民を「追い出さなかったので」と繰り返されるのがそれです。――「適当に」ではなく全てを主に捧げる礼拝を、明日ご一緒に守りましょう。

第2章1節〜10節(カナンの征服・主に背く世代が興る)

2004年1月11日(日)
士師記の時代はいかなる時代であったか。それは、ヨシュアの死によって始まりました。即ちイスラエルは今や、傑出した指導者を失うとともに世代交代を経験します。そこには「主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った」のでした。また士師記は、その時代の全貌を振り返りつつ、次の様に締め括っています。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた(2125)。」自分たちを真に導いてくれる指導者を欠き、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた時代、それが士師記の時代です。――今日それぞれが自分の目に正しいとすることを行っている状況が進行しつつあるのではないでしょうか。士師記が語る時代状況は正に現代世界と重なってくるように思うのです。しかしその様な中にあって、聖書は<真の指導者>の実在を告げています。あなたを生かし導かれる真の指導者、主イエス・キリストです。私たちは、このお方の下で、真に人間らしく生きることができるのです

第2章11節(主に背く世代が興る)

2004年1月12日(月)
人々は主の目に悪とされることを行い!――聖書は<私たち人間の目にどう映っているか>ではなくて<神様の目にどう映っているか>を問題にしています。そして私たちが「正しい、正しい」と思っていることも、主の目には悪と映っている場合が十分あり得ます。私たち人間はむしろ、自分が正しいと思っている時にこそ、罪を犯す存在なのだと肝に銘じておきたいと思います。――今日一日の、あなたの歩みの上に、主の眼差しが注がれています。しかし私たちは、厳しい監視官の下で、優等生を演じて生きるのではありません。「私は獣のほえる不毛の地であなたを見つけ、囲い、いたわり、私自身の瞳のように守る(申命記3210)」と言って下さる主の御前で、私たちは今日の一日(ひとひ)を歩むのです。

第2章11節〜第3章6節(主に背く世代が興る)

2004年1月13日(火)
21118は士師記のパターンを提示しています。@イスラエルの人々が主の目に悪とされることを行い、主を捨てて偶像に仕える。Aすると主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを敵の手に渡す。(B苦境に立たされたイスラエルは主に助けを求めて叫ぶ。)Cすると主は彼らのために士師を立て、これを救われる。――この@〜Cは士師記において何度も繰り返されますが、それは私たちの信仰生活においても繰り返し起こることではないでしょうか。主は今日あなたに「敵の存在は偶然ではない、私が立てているのだ」と言っておられるかも知れません。そして主は「今日私の名を呼べ」とあなたの救いを求める叫びを待っておられるのかも知れません。私たちは今日、主の聖名を呼び求めて良いのです

第3章7節〜11節

2004年1月14日(水)
主から離れて、よその神々の元へと走り行くイスラエル。しかし、出現した敵に倒され、どうにもならなくなったイスラエル。主に刃向かった期間は長く、悔い改めようともしなかった彼ら。否、本来あるべき所へと戻ることができなくなっていた彼ら。その彼らが、遂に主の御元に立ち帰ったのです。そしてここにこそ、イスラエルがイスラエルたる所以があります。神様の元から離れたことなど一度もない、と言うのではありません。主の裁きを受けたことなどない、と言うのでもありません。「神様の元へ返っていく当然の権利が自分たちにはある」などと言えるような立場にはありません。しかしイスラエルは最後<主に助けを求めて叫ぶこと>を知っているのです。イスラエルは今、自分たちが神の民であることを思い起こしました。今日、主の聖名を呼び、主に立ち返りましょう。

第3章12節〜31節(オトニエル・エフド・シャルガム)

2004年1月15日(木)
モアブの王エグロンはエフドの剣が右腰にあるのを見て「この男に害意はない」と判断します。ところがエフドは左利きであって、一瞬にして事は決着しました。「剣は刃からつかまでも刺さり、抜かずにおいたため脂肪が刃を閉じ込めてしまった(22)。」――神の審きは思わぬ所から下ります。主の御言葉の剣は、思わぬ時に、思わぬ仕方で臨み、身に付いた贅肉を貫き通します。それゆえ主は繰り返し言われました。「その日、その時は、だれも知らない。・・気をつけて、目を覚ましていなさい」と。――神様の審きが何時、如何なる形で臨むのか、それは誰にも知らされていません。しかし私たちにハッキリ知らされていることがあります。それは、神の審きの全権は主イエスに委ねられている、ということです。この方は、私たちのために十字架につき、その死によって私たちの罪を贖って下さった方です。私たちは今日、この方に向かって信仰の眼差しを上げるのです。

第4章1節〜24節(デボラとバラク

2004年1月16日(金)
なぜ将軍シセラがイスラエルの眼前に立ち現れたのか。それは、イスラエルが主の目に悪とされることを行ったからです(事の大前提)。それ故「シセラは悪人だったのでこの様な無残な最後を遂げたのだ」というのは誤りです。そうではなくて、彼は主によって立てられた存在であり、ここでその役割を終えて倒れ伏したのです。イスラエルが罪を犯したために、イスラエルの罪を罪として明らかにし、彼らを真実の悔い改めへと導くために<神様がお立てになった地上の敵>、それがヤビンの将軍シセラなのです。――士師記は<あなたの地上の敵は神様が立てておられる存在>という驚くべきメッセージを語ります。

第5章1節〜31節(デボラの歌)

2004年1月17日(土)
遂に主に立ち返った神の民イスラエル。彼らは主への献身に生き始めます。それは、主への賛美・頌栄の詩です。――明日、全世界の諸教会の上に聖霊の導きがありますように。

第6章1節〜40節(ギデオン)

2004年1月18日(日)
ギデオンの召命。酒ぶねの中のギデオンに主の御使いが現れて告げました。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」しかしギデオンは答えます。「主が私たちと共におられるなら、なぜこのような悲惨が降りかかって来るのですか」と。そして自分の無力さ・貧弱さ・未熟さを彼は口にします。しかし、その彼に対して主は言われるのです。「あなたのその力をもって行くがよい」と。――今日、主はあなたをお遣わしくださいます。そして主は「あなたの、その微小な力をもって行くがよい」と言われるのです。そうです。パウロに告げられた主の御言葉は今日も鳴り響いているのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。

第7章1節〜25節(ギデオン)

2004年1月19日(月)
敵ミデアンに対して集結した兵士32千!しかし主は「これでは多すぎる」と言われます。最初22千人が帰り、次に97百人が帰りました。残った兵士はわずか300人です。なぜ主は「これでは多すぎる」と言われたのでしょうか。それは、先の人数で勝利すれば、イスラエルは私に向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言い出すからです。また、家路についた先の317百人は、自分たちの思いで参戦してきた人たちですが、ここに残った3百人は、主によって選ばれた者たちなのです。――しかして勝敗はいかに。イスラエルはギデオンの指示に忠実に従い「各自持ち場を守り、敵陣を包囲したので」大勝利を得ました。一方敵陣では、勝手に同士討ちが始まり、その内部から崩壊して行きました。――今日、主から命ぜられている各自の持ち場を守り、御国のために共に働きましょう。家庭で、学校で、職場で、地域社会で、勝利の主があなたと共におられます。

第8章1節〜35節(ギデオン)

2004年1月20日(火)
「ギデオンは彼らに答えた。『私はあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる。』(23)」士師ギデオンの信仰がここに現れ出ました。――衰え果てたイスラエルをミデアンの手から救い出したギデオン。勝利の歌と共に凱旋してきた士師。そのギデオンに向かって人々は言うのです。「あなたとあなたの御子息が我々を治めて下さい」と。しかしこの願い・誘いこそは、ギデオンが最も受けたくない願いであり誘いでした。なぜなら、イスラエルは自分たち人間によってではなく、主なる神によって治められる、それがギデオンの一貫した信仰だったからです。そしてこの事を言い出したイスラエルは、ギデオンの死後、再びバアルを自分たちの神としていったのです。
――主イエスが、教会の、私の人生の、全世界の、王となられますように。

第9章1節〜20節(アビメレクの過ち)

2004年1月21日(水)
ここで一体何が起っているのでしょうか。それは、表面的にはアビメレクによるギデオン一家打倒の陰謀です(注:エルバアル=ギデオン)。しかし、その内実は、人間的親しさによって集まった者たちによる、主の僕打倒の計画です。アビメレクは身内の者たちを抱き込み、ギデオン家を皆殺しにします。しかしそこに、主は<一つの若芽>を取っておかれました。それが末の子ヨタムです。彼は父譲りの信仰を携え、山の頂に立ち、シケムの首長たちに向かって大声を張り上げます。「オリーブの木は言った。『私の油を捨てて・・。』いちじくの木は言った。『私の甘くて味のよい実を捨てて・・』ぶどうの木は言った。『私のぶどう酒を捨てて・・』」ヨタムは、王なる主に仕えて生きる喜びを、その甘美さを、潤いを、歌っているのです。その信仰を捨てて、自らを王とすることなどできない、と彼は言っているのです。――私たちは、主イエスのご支配の下で、真実に人間らしく生きることができます。人間による人間支配は、信仰の芳しい油をかすめ取り、苦くて味の悪い実をならせ、生き生きとした潤いを奪い去るのです。

第9章21節〜57節(アビメレクの過ち)

2004年1月22日(木)
王なる神に仕える喜びに生きた信仰者、ギデオンの末っ子ヨタム。彼がアビメレクの下を逃れて後、3年の年月が経ちました。即ちアビメレクの天下が三年間続いたのです。しかしそこに一体何が起ってきたか。それは、身内との間に険悪な空気が生じ、新王が祭り上げられ、内通者の出現、骨肉の争い、アビメレクの勝利です。しかしそのアビメレク自身もまた、最後思わぬ仕方で奈落の底へと突き落とされました。――本日の聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。それは、神様はこれら一連の出来事を通して<人間による支配に終止符を打たれた>ということです。神様は、人間による教会支配・人生支配・世界支配を、ただ傍観しておられる方ではありません。そして主なる神様は、私たちをヨタムの喜びに与らせようとしておられるのです。主こそ私の王!ここに真の喜びがあります。

第10章1節〜5節(トラ・ヤイル)

2004年1月23日(金)
士師にも様々な士師がいます。多く物語られているサムソン。簡潔な記述のトラやヤイルです。私たちの目には、業績の大小が記述の分量に反映していると映るかもしれません。しかし神様の目にはそうではないと信じます。聖書の記述をはるかに超えて、神様のご記憶には一人一人の生涯がシッカリと刻み込まれています。あなたの今日一日も、です。

第10章6節〜18節(イスラエルの罪と罰)

2004年1月24日(土)
偶像へと走ることを繰り返すイスラエル。主は怒り、苦しむ彼らに対して「あなたがたが選んだ神々に救ってもらえ」と言われます。しかし最後、彼らが偶像を一掃した時のこと。「主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった。」主の愛を示す御言葉です。

第11章1節〜第12章15節(エフタ・イブツァン・エロン・アブドン)

2004年1月25日(日)
かつてエフタを見捨てた長老たちが、今になって助けを求めてやって来ました。彼らは「ならず者の頭」と蔑んだ男の前で「私たちの指揮官になってください」と土下座します。正に「困った時の○○頼み」とはこのことです。――方や、エフタとその娘の姿が私たちの心を動かさずにおきません。一人娘を主に献げようとする父親。それに従い自分自身を献げる娘。なぜ二人はそうまでするのでしょうか。もと来た道へと引き返すことはできないのでしょうか。エフタは言います。「私は主の御前で口を開いてしまった」と。正に神を神として歩む二人の信仰者の姿です。――自分たちの都合で神をも動かそうとする者たち、そして、自分たちの都合ではなく神が神であられるために献身していく者たちです。私たちは今日、聖霊の助けにより、神が神であられるために自らを献げて生きましょう。愛する御子を私たちのために献げてくださった父なる神、父に従いご自分を献げられた独り子イエス、エフタ親子は主を証しする者たちだったのです

第13章1節〜25節(サムソン)

2004年1月26日(月)
40年という屈辱の期間。しかし「それは偶然ではなく、主がイスラエルをペリシテ人の手に渡された期間」と聖書は語ります。そして遂に、主はここに救いの御手を用意しておられます。ナジル人サムソンがそれです。――主は、あなたを屈辱の中に留め置かれることがあり得ます。しかしそれは、あなたを苛めるためではなく、あなたが悔い改めて主に立ち返るためです。サムソンを遣わされた主は、最後、御子をお遣わしになりました。あなたは今日、この御子の執り成しによって、主の御元に立ち返ることができるのです。

第14章1節〜7節(サムソン)

2004年1月27日(火)
信じられない神のご計画があるものです。見たところサムソンは惚れっぽい性格のようです。しかも一度好きになったら最後。トコトンまでのめり込んで行くタイプのようです。しかしそれにしても、この度のサムソンには両親も呆れ顔です。こともあろうに自分たちを苦しめ続けてきた、あのペリシテの女と結婚したいとは! しかし正にここで聖書は語るのです。「父母にはこれが主のご計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。」そうです。主は今、サムソンの惚れっぽい性格をも用いて、敵陣深くご自分の士師を遣わそうとしておられるのです。――主は今日、あなたの性格・与えた賜物の全て・あなたの存在そのものを用いて、ご計画を進めて下さるのです

第14章8節〜第15章20節(サムソン)

2004年1月28日(水)
ユダの人々はサムソンを大変な厄介者だと考えています。お前が暴れてくれたお陰でペリシテを怒らせてしまい、私たちは今苦境に立たされている。こう言う彼らは、この時主に対して悔い改めてはいません。自分たちがペリシテの下に屈服している現状を、いつしか当たり前のように考えていたのかも知れません。しかしそんな時に、大いに暴れ回るサムソン!彼たった一人で、いつの間にかペリシテは順次敗北していくのです。――主によって立てられた士師サムソン。惚れやすく、すぐに暴れ出すサムソン。その並外れた怪力。主の御業のためでなかったなら、この怪力は一体何になろうか。しかし主が彼と共におられ、主が用いられるのです。あなたも今日、主の道具として主に用いていただけるのです。

第16章1節〜31節(サムソン)

2004年1月29日(木)
「私の神なる主よ。私を思い起こして下さい。神よ、今一度だけ私に力を与え、ペリシテ人に対して私の二つの目の復讐を一気にさせて下さい。」サムソンは今、すべてを失って真実を知ったのです。「あの怪力は自分自身の力ではなく、すべて神が与えて下さった力であった」と。しかし聖書はここに驚くべきことを語っています。サムソンが悔い改める以前に、主は既に彼を顧みておられたのです。21-22節「主が彼を離れられたことには気づいていなかった。・・しかし、彼の髪の毛はそられた後、また伸び始めていた。悔い改めて力(髪)が回復したのではなく、悔い改め以前に主の顧みは始まっていたのです

第17章1節〜13節(ダン族の移動)

2004年1月30日(金)
「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」そこに何が起ってきたか。母親を騙して銀千百シェケルを奪った息子ミカ。返還された銀で息子に偶像を買い与える母親。更には、ミカは神殿を所有し、息子を勝手に祭司に仕立て、旅人を誘い入れて<自分のお抱え祭司>とします。そして最後、彼は満足そうにこう叫ぶのです。「レビ人が私の祭司になったのだから、今や主が私を幸せにして下さることが分かった」と。――私たちはこのミカの姿を見て「全くやりたい放題だ」と簡単に冷笑はできないと思います。むしろ私たちにも、自分の目に正しいとすることを行い、主の御心を聴こうとしないことがあるのではないでしょうか。特に、自分の幸福のために神様を利用しようとする罪の力が私たち人間を捕らえるのです。――「今や主が私を幸せにして下さることが分かった!」ミカがこう叫んだ時、主はいかなる御心で彼をご覧になっておられたのでしょうか。十字架の主イエスの御姿が鮮明に浮かび上がってきます。

第18章1節〜31節(ダン族の移動)

2004年1月31日(土)
主の御加護を約束した祭司。しかし、聖職者を抱き込み、強奪、脅迫、そして新たな略奪。一体何が起こっているのでしょうか。聖書はその根本を見詰めています。偶像礼拝こそ全ての根なのです。――主よ、私たちを罪から救い出し、あなたの御顔を仰がせて下さい。

第19章1節〜30節(ベニヤミン族の犯行)

2004年2月1日(日)
聖書の中にこの様な一章があるとは!驚きと共に目を背けたくなるような一章です。側女を持つ聖職者、ギブア人におけるソドムとゴモラの再来、自分の身を守るためには娘や側女を差し出す父と夫、野獣と化したギブア人。倒れ伏す側女を連れ帰り、十二に切断してイスラエル全土に送りつける凄惨。これが本当に神の民なのか、そう思わずにおれません。正に「イスラエルの人々がエジプトの地から上って来た日から今日に至るまで、この様なことは決して起こらず、目にしたこともなかった」ことです。――なぜこの様な惨事が起こるのか。聖書は一言記します。「イスラエルに王がいなかったそのころ」と。本章は、真の王を持たない人間の<底知れぬ暗闇>を啓示しています。自分の思いを第一として歩む人間の悲惨がここにあります。――しかし福音は真の王の到来を告げています。「光は暗闇の中で輝いている。」主の十字架の御光が、この不気味な一章を貫いて輝いています。

第20章1節〜第21章25節(ベニヤミン族の犯行)

2004年2月2日(月)
「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」この一言に士師記全体がかかっています。そしてこの御言葉は現代日本の状況を言い当てている御言葉ではないでしょうか。真の王、主キリストが、あの方この方の恵みの王として立って下さるよう、教会の祈りを合わせて行きましょう。


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