ヨシュア記


第1章1節〜18節(モーセの後継者ヨシュア)

2003年12月14日(日)
強く、雄々しくあれ」と主は繰り返し語っておられます。いよいよ約束の地に入るのです。そこで、主は御自分の民を励まし、支えられるのです。――しかしなぜでしょうか。なぜ主は繰り返し「強く、雄々しくあれ」と言われるのでしょうか。それは、ヨシュアをはじめとする民全体が恐れていたからです。「カナンにはどんな敵が待ち受けているのか。」「自分たちは本当に約束の地を得ることができるのか。」彼らは自分たちの力を顧みて、その弱さを思わずにおれないのです。主が「約束の地を与える」と確約して下さったにもかかわらず。――私たちには、主イエスの故に、御国の相続が約束されています。神ともにいます生活、その住まい、永遠の命です。けれども私たちは恐れるのです。この世の戦いにおいて。世界を覆い尽くしている闇の力に圧倒されて。そういう私たちに、主は語りかけられます。「強く、雄々しくあれ」と。それは「頑張れ!」との激励ではありません。「この私があなたと共にいる!」という<全能の神の守り>そのものなのです

第2章1節〜24節(エリコを探る)

2003年12月15日(月)
信仰によって行動した遊女ラハブ!新約各書が彼女のことを思い起こしています(マタイ1:5,ヘブライ11:31,ヤコブ2:25)。彼女はイスラエルの神の勝利を予見し、確信しています。そしてその確信に基づいて行動する彼女は、斥候の二人を匿い、信仰の言葉を語り、斥候の指示に忠実に従うのです。そしてこの遊女の信仰が、今こそイスラエルに必要です。エリコを攻略する唯一の道が彼女の姿に示されています。――既に信仰生活を送っている者が、求道者の方の下向きな態度に、多くを教わることがあり得ると思います。イスラエルの神の勝利を確信し、それに備えて行動したラハブ。救われたい一心で、斥候が出した指示に忠実に従うラハブ。難攻不落の要塞エリコは、この信仰によって陥落するのです

第3章1節〜17節(ヨルダン川を渡る)

2003年12月16日(火)
「これまで一度も通ったことのない道!(4)」それは<未踏の道>というだけではありません。<人間の力によっては切り拓くことのできない道>ということです。そしてそこには、人の歩みを押し止めるヨルダン川が横たわっているのです。――私たちの人生に、洗礼を決意する際に、教会の歴史上に、このヨルダン川は現れます。そして私たちが地上の歩みを歩み終えるその時にも。――聖書は、どの様にしてヨルダン川を渡って行けと言っているでしょうか。それはただ一つ「先立つ主の御言葉の後に続け」です。そして今や、私たちの前に先立ちたもうのは主イエス・キリストです。主は言われました。「私は道であり、真理であり、命である」と。主が一度も通ったことのない道は存在しません。主は神へと至る道そのものです。あなたがヨルダン川を渡る時、主が共におられます。

第4章1節〜24節(記念の十二の石)

2003年12月17日(水)
イスラエルでは信仰を語り継ぐために生きた教材が用いられます。ここではヨルダンの川辺に据えられた十二の石がそれです。子どもたちは大人に尋ねます。「ねえ、これら石は何??」大人は語り始めます。「それはね・・」と。――信仰の継承!それは、難しい神学や借物の教えではありません。私たちの身の上に起った<主なる神の御業>をそのままに語り継ぐのです。キリスト者は誰でも<神の御業の語り部>になれるのです。

第5章1節〜15節(契約のしるし)

2003年12月18日(木)
エリコ攻略を目前に控えた指揮官ヨシュア。彼はエリコの町を遠目に見やりますが、そこに突然「主の軍の将軍」が現れ「今、着いたところだ」と宣言します。「今、着いたところだ!」私たちは、主が立ち上がってくださるのを今か今かと待ち焦がれることがあります。また、待ちぼうけ続きで、主の到来を諦めてしまうことがあります。或いは、主の御業が開始されることをスッカリ忘れてしまっていることさえも。「今、着いたところだ。」もっと早くに!こんなに早く!それが私たちの思いです。しかし、主は御自身の定めたもう時に必ず来られます。「今、着いたところだ。」アーメン、主イエスよ、来てください。

第6章1節〜11節(エリコの占領)

2003年12月19日(金)
カルヴァンは本日の聖書箇所を次のように説いています。「これらは全て、子供の遊戯以外の何ものでもない。しかし、これ以上に信仰を試すのに適切なテストはないのである。なぜなら信仰は、神の御言葉に黙って従うことにおいて証明されるのだから。その行い自体は単なる落胆以外の何ものでもない時においてさえ。・・・同じ目的をもって、神様はしばしば、ご自分の御力をしばし弱さの下に隠し、くだらぬ物事で(我々人間を)からかっておられるように見える。しかし遂には、神の弱さはあらゆる力よりも強いことが現実として示され、神の愚かさは全ての知恵に優ることが明らかとなるのである。主のご命令は、しばらくの間イスラエルが馬鹿を演じることを求めている。そして、事態を心配するあまり鋭敏になり過ぎて、難解な問いを神に投げかけることがないように、とのご命令なのである。――そうこうするうちに、城壁の周りを循環して回る運動は、人々の嘲りを呼び起こし、後に大成功という結果によって次のことが知らされるのである。即ち、主なる神様は何事においても、いたずらにお命じになることは一切ない、ということが。」

第6章12節〜27節(エリコの占領)

2004年12月20日(土)
六日間あっての七日目です。神の不可解なご指示に従った後の<信仰の雄叫び>です。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。」明日、御国の王を礼拝します。

第7章1節(アカンの罪)

2003年12月21日(日)
エリコは遂に陥落しました。しかしその戦いの際に「不誠実」がありました。主の御言葉に対する不誠実です。主は「滅ぼし尽くすべきものに手を出すな(6:18)」と言っておられたのですが、その御言葉に対して不誠実な者がいました。それがアカンです。彼は金の延べ板が欲しくなり、それを取って地中に隠しました。しかし本日の御言葉は何と言っているでしょうか。「イスラエルの人々は・・不誠実であった。」「主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく怒った。」アカン個人に、ではなく、イスラエルの人々に、御言葉に対する不誠実があるというのです。――ここに聖書の世界があります。神様は<信仰共同体である神の民>と<信仰者一個人>とを一体のものとして扱っておられるのです。喜びも悲しみも、そして罪すらも。私たち一人一人は、キリストの体なる教会の一枝とされました。それゆえに、目は手に向かって「君は私には関係ない」とは言えないのです。

第7章1節〜15節(アカンの罪)

2003年12月22日(月)
エリコは難攻不落の要害でした。一方アイは「取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません」との軍事専門家の判断です。しかし結果はどうだったでしょうか。無残な敗北でした。イスラエルは敗走し、民の心は大いに挫けました。――なぜこの度は敗北を喫したのでしょうか。それは、イスラエル内部に不誠実があったからです。それゆえに主なる神様は、イスラエルの手にアイをお渡しにならなかったのです。――神の民の戦いは、敵の大小・強弱によって決まるものではありません。主との関係そのものが事を決するのです。あなたは今日、難敵を前にして歩まれるのかも知れません。あるいは「取るに足りぬ相手だ」と思いつつ、事に当ろうとしているのかも知れません。けれども、いずれの場合にも、主との関係、主はどうなさろうとしておられるのか、がすべてです。主の御心を尋ねる祈りを携えて、今日与えられた業へと赴いて行きましょう。

第7章16節〜26節(アカンの罪)

2003年12月23日(火)
本章の中心メッセージは「あなたはこのアカンのようにならぬよう気をつけなさい」ということでしょうか。それは、余りにも表層的な解釈だと思います。ヨシュアは言っています。「私の子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、主をほめたたえ、あなたが何をしたのか包み隠さず私に告げなさい」と。そうです。今アカンは主に栄光を帰し、罪を告白するのです。主に栄光を帰し、自らの罪を告白して、死を遂げたアカン。私たちの一体誰が「アカンは私とは関係のない人物だ」と言えるでしょうか。アカンにとっても私たちにとっても救いは唯一です。十字架の死を遂げ、復活して活きておられる主キリストです

第8章1節〜35節(アイの滅亡・エバル山での律法の朗読))

2003年12月24日(水)
先の戦いでは約三千人が派兵されましたが、今回は全軍が出撃します。「アイなど取るに足らない」との甘い考えは消え去りました。引き締まったイスラエル兵の面持ちが浮かび上がってくるようです。イスラエルは今、主がアイを自分たちの手に渡して下さるかどうか、そのことにすべてがかかっていると知って出て行くのです。――敵の大小によらず、強弱によらず、主と共に出て行く戦い。それが、今日一日の私たちの歩みです

第9章1節〜27節(ギブオン人の服従)

2003年12月25日(木)
難攻不落の町エリコとの戦い。愚かなほどに主の御言葉に聴き従った時、そこに大勝利がありました。弱小の町アイとの戦い。「取るに足らぬ相手」と思い、自分たちの力でねじ伏せようとした時、そこに思わぬ敗北がありました。そして本日のギブオン人との交渉。ギブオン人の大芝居とその交渉ですが、ここで決定的なのはただ一事です。14節「男たちは彼らの食料を受け取ったが、主の指示を求めなかった。」ここに結ばれた平和協定は、主の指示を求めないところで結ばれた盟約なのです。――信仰生活の歩みの中で、私たちに大事な判断や決断が求められてくる時があります。その時に決定的なことは一つです。主の指示を求めたかどうか、この一点に全てがかかってきます。どちらの道が損か得か、どちらの方法が功を奏するか、そのこと以上に決定的なこと、主の指示を求めて判断し、決断したかどうか。主の御心を聴いて前進する、信仰生活を送りましょう。

第10章1節〜43節(五人の王の征服)

2003年12月26日(金)
主の指示を求めず結んだギブオンとの盟約。その後に何が起こってきたか。――まずエルサレムの王が盟約の知らせを聞いて、ギブオンの襲来を恐れます。そこで彼は、周辺諸王に呼びかけて五カ国軍事同盟を結びます。・・一方ヨシュアは、ギブオンから援軍の依頼を受け、それに応えて出陣しますが、その時に主の御言葉が彼に臨みました。「彼らを恐れてはならない。私は既に彼らをあなたの手に渡した。」ギブオンとの盟約は、主の指示を求めずに結んだ早合点の盟約でした。しかし今、主なる神様はその盟約に基づいて戦って下さるというのです。――聖書が証しする神様は、人間の破れを繕って下さる方です。私たちの悪を善に変えることができる御方です。この主と共に、今日を行きましょう。

第10章14節(五人の王の征服)

2003年12月27日(土)
ここで言う「人の訴え」とはギブオン人の訴えのことです。「何とか生き延びたい」という助命の嘆願です。そして何と神様は、この異邦人の、自分本位の願い出を、この日聞き届けられたのです。しかもそれは、イスラエルが結んだ平和協定に基づいてであり、主はイスラエルのために戦われたのです。――明日私たちは、求道者の方々と共に主を礼拝します。主は、求道者の願いをも聴き届け、私たちのために戦って下さる御方なのです

第11章1節〜第12章24節(ハツォルとその同盟国の征服・占領地・ヨルダン川の東側で征服された王たち・ヨルダン川の西側で征服された王たち)

2003年12月28日(日)
神の御業の究極的完成とは何でしょうか。それは、主イエスが再臨され、私たちの住んでいるこの地上の一切が神に帰されることです。この地上のすべてが贖われて神のものとなり、万物が新しく創造されるのです。――私たちは「この地上はダメなもので、天国は別の所で完成する」と思ってはいないでしょうか。もしそうだとすると、神様の御業も私たち自身の使命も、よく分らなくなってしまうと思います。主イエスは、この地上神の支配があるようにと祈り続けられました。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と。――本日の聖書は、地上の諸王がイスラエルの神に服していく歴史を描いています。しかも、その神様の御業は、モーセを通して与えられた<約束の成就>なのです(11:15)。主キリストの教会は、終末に至るまで「この地上が神のものとなるように」と働きます。時を得ても得なくても、主キリストの十字架を宣べ伝えて行くのです。あの方に、この方に、神の愛のご支配が届いていくように、今日も祈り、そして主に仕えていきましょう。

第13章1節〜33節(各部族の領地・ルベン族・ガド族・マナセの半部族)

2003年12月29日(月)
あの出エジプトの出来事以来、神の御業に直面し続け、今日まで生き残っているのはただ二人です。ヌンの子ヨシュア、そしてエフネの子カレブです(民数記13-14)。そして今やこの二人も年老いました。――しかし主なる神様は言われるのです。1節「ヨシュアが多くの日を重ねて老人となったとき、主は彼にこう言われた。『あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている。』」神様がこう言われる以上、その使命を果たすに必要なすべてが備え与えられるはずです。気力と体力、そして何よりも祈りです。信仰者の最後の使命は祈りに収斂していきます。「祈ることはできても行動できなければ何にもならない」などと冒涜を言ってはならないのだと思います。神の国の軍勢にあっては、自力で戦う一万の兵士より、主の御心を求めて祈る一人なのですから。

第14章1節〜15節(ヨルダン川の西側・カレブ)

2003年12月30日(火)
あれから四十五年。カレブ八十五歳。今彼は土地の分配に与るに当たり、かつて与えられた主の約束を口にしています。その彼には何の遠慮も見られません。堂々と主の約束分を頂こうとしています。かつて主に従い通した者として、主のご褒美を素直に喜んで受けようとしているのです。――私たちの救いは、行いによらず、ただ主の恵みによります。けれども、主に従った者に主は確かに報いて下さる、この恵みに対しても素直でありたいものです。自分の行いに関して「私が何をしようと結局神様は赦して下さる」などと恐ろしいことを念じてはなりません。主はあなたの善き行いを、今日も待っておられるのです。

第15章1節〜63節(ユダ族の境界線・オトニエル・ユダ族の町々)

2003年12月31日(水)
本日は大晦日です。しかしこの日は、教会の暦では降誕節の中にあります。つまり本日は主のご誕生を祝う降誕節の中にあっての大晦日なのです。その本日に、ヨシュア記15章が与えられました。ここには主イエスが属されたユダ族への土地の分配が記されています。そして59節に、主がお生まれになった町の名前を発見し、私たちは喜びに満たされます。都エルサレムが未だ獲得されていなかった時に、主は既に小さな町ベツレヘムを御心に留めておられたのです。――「どうして、こんな小さな村に神の恵みが降り注がれたのだろうか。」私たちにはそう思える所から、神様は決定的な御業を開始されました。この過ぎし一年、あなたの気付かない所で、主はどれほど多くの御業をなして来られたことでしょうか。小さな町小松にも神の恵みが降り注がれたことを思い、この年を過越しましょう。

第16章1節〜第17章18節(ヨセフの一族・エフライム・マナセ族・ヨセフの一族の開拓地)

2004年1月1日(木)
ヨセフの子らが来てヨシュアに直談判しました。「私たちに割り当てられた土地は今や狭すぎます。わが民は、主に祝福されて、これほど数多くなりましたから」と。これを受けて交渉に入りますが、双方どこかギクシャクしています。なぜか。ヨシュアは気付いていたのです。ヨセフの子らは「わが民は、主に祝福されて、これほど多くなりました」と言っていることに。「主に祝福されて」は美辞麗句であって、自分たちの繁栄ぶりを誇っていることを。――新しい一年の上に主の祝福を祈りましょう。忘恩の罪を打ち砕かれながら

第18章1節〜第19章51節(その他の七部族・ベニヤミン族・シメオン族・ゼブルン族・イサカル族・アシェル族・ナフタリ族・ダン族・相続地の配分を終わる)

2004年1月2日(金)
約束の地における土地の分配。それは「既に勝ち取られた土地を各部族に分配した」という話ではありません。今は敵が待ち構えている土地ではあるが、神様が「既にあなたたちの手に渡した」と言われたのです。それゆえその分配も「くじ」によって行われます。それは「各部族から文句が出ないように」との配慮からではありません。神様が「くび」を通して御心を示され、割り当て地を決定されるのです。それぞれの部族には、主によってそれぞれの土地が与えられました。山岳地帯、森林地帯、比較的水の豊かな地域とそうでない地域、敵が強い所とそうでない所、様々です。――主なる神様は、地上の教会にそれぞれの場所と環境をお与えになっておられます。また私たち一人一人の人生にも。そして終わりの日、全キリスト者が主の嗣業に与るのです。「以上は、・・主の前においてくじを引き、受け継いだ嗣業の土地である。土地の割り当ては、こうして終わった(1951)。」

第20章1節〜第21章45節(逃れの町・レビ人の町)

2004年1月3日(土)
教会は「逃れの町」であり「レビ人の町」です。神様は今日も、人々が逃れ行く町を用意しておられ、そこには神の前で人を執り成す祈り手がいるのです。――明日私たちは、主イエスの御元へと逃れ行き、主の執り成しを受けて神を拝し、隣人を覚えて祈るのです。

第22章1節〜20節(ヨルダン川東岸諸部族の帰還)

2004年1月4日(日)
12節で軍隊派遣が議決されていますが、それは礼拝に関する問題のためです。ヨルダン川東岸に住むルベン族・ガド族・マナセの半部族が<礼拝する場所を自分たちで勝手に定めたこと>が問題になっています。彼らは、主の祭壇が川向こうにあることを良しとせず、自分たちに都合の良い場所に祭壇を築いたのです。――私たちキリスト者には、いつどこででも祈ることが許されています。それがキリスト者に与えられた特権です。けれども、共同体による公の礼拝(主日礼拝)の場合、その時と場所とは神様がお定めになることです。ですから「今日は天気が良いから、礼拝堂はやめて屋外へ出よう」とか「たまには気分を変えて山の上で礼拝しましょう」などと勝手に礼拝の場所を決めることは許されません。なぜなら、それはもはや主のための礼拝ではなくて、自分たちのための礼拝になってしまっているからです。――主が、礼拝を自分たちのものにしようとする罪から私たちを解き放って下さるように、共に祈りましょう。神の栄光のみが現われる礼拝を求めながら。

第22章21節〜34節(ヨルダン川東岸諸部族の帰還)

2004年1月5日(月)
「私たちは今日、主が私たちの中におられることを知った。」祭司ピネハスは、戦闘開始寸前であったルベン族・ガド族・マナセの半部族に対して語っています。「今分かった。あなたたちは主にある私たちの兄弟だ」と。<主を礼拝する信仰の一致>が確かめられた時、そこに兄弟姉妹の絆が見出され、自分たちの中に主が現臨しておられることに気付かされたのです。――「私たちは今日、主が私たちの中におられることを知った。」今日の教会も事情は同じです。礼拝が真の礼拝となる時、そこに真の神の民が出現するのです。

第23章1節〜16節(ヨシュアの告別の言葉)

2004年1月6日(火)
昨今、根拠なき一神教批判がしばしばなされます。それによれば「一神教は寛容の精神に欠けるために戦争を引き起こしやすい」というのです。一見それらしい批判ですが、事実を見誤っていると思います。例えば、日本は一神教国ではありませんが、19世紀末から10年ごとに戦争を繰り返しました。また、クエーカー教徒(キリスト教)は戦争を徹底的に拒みます。つまり問題は「一神教だから」ではなくて、人間の過ちと悪の働きにあるのです。――ヨシュアはその遺言として語ります。「主なる神はあなたたちをあらゆる敵から守り抜いてきて下さった。だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい」と。ヨシュアは「救いの神に対し、徹底して忠実であれ」と言っているのです。それは、寛容の精神に欠けることではなくて、自らの罪と徹底的に戦え、ということです。罪の力が内にも外にもうごめく中で、主の恵みのご支配に生きよ、と聖書は語るのです。

第24章1節〜15節(シケムの契約)

2004年1月7日(水)
ヨシュアが後輩たちに言い残すことは明確です。@主は、アブラハム以来、いかに私たちを導いてきて下さったか。どれほど私たちのために戦ってきて下さったか。Aだからあなたたちは、主を畏れ、真心を込め真実をもって主に仕えなさい。Bしかし、もし主に仕えたくないというならば、自ら望む神々の所へ今戻って行くが良い。――Bは少し冷たい言葉のようにも聞こえますが、信仰の決断を求める大事な呼びかけです。私たちは、誰かに対する義理で洗礼を受け、主に従う者となったわけではありません。また、求道者の方に恩を売って洗礼を受けてもらうのは誤りでしょう。そうではなくて、人は、神の導きを知らされ、主の恵みを味わい知って、洗礼へと心を向けて行くのです。それは、聖霊だけが可能にして下さる喜びの服従であり、そこには<私たち人間の、主に対する自由で自発的な応答>があります。御霊よ、私たちをなお導き、主に喜んで従う者とならせて下さい。

第24章16節〜28節(シケムの契約)

2004年1月8日(木)
「主を捨てて、他の神々に仕えることなどするはずがありません。」私たち信仰者の誘惑と戦いは迫害下の厳しい局面ばかりでなく、平常のものだと思います。即ち知らず知らずのうちに、主の教えとこの世の教えとを混ぜ合わせ、その様にして主を捨てて、他の神々に仕えてしまう誘惑と戦いです。主よ、聖書の御言葉と私たちとを真に一つとして下さい。

第24章29節〜33節(ヨシュアの死・ヨセフの埋骨、エルアザルの死)

2004年1月9日(金)
ここには<ヨシュアの死>と<ヨセフの埋骨>が記されています。特に<ヨセフの埋骨>がここで実現しているのを見る時、深い感慨を抱かずおれないと思います。即ち創世記はヨセフの遺言をこう記していました。「ヨセフは兄弟たちに言った。『私は間もなく死にます。しかし神は必ずあなたたちを顧みて下さり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上って下さいます。』それからヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。『神は、必ずあなたたちを顧みて下さいます。その時には、私の骨をここから携えて上って下さい。』」――主なる神は、生きている時も、死に臨む時も、ヨセフと共にいて下さいました。そしてヨセフの死後も、主はその亡骸を携え上って下さり、今シケムの地に埋葬して下さったのです。――正に私たちの唯一の慰めは、私たち自身が、生きている時も、死に臨む時も、そして死んでいる時も、私たち自身のものではなくて、主イエス・キリストのものだ、ということです(ハイデルベルク信仰問答:問1)


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