民数記


第1章1節〜第2章34節(人口調査・レビ人の任務・全軍の配置)

2003年9月18日(木)
民数記は、イスラエルが辿った40年近い<荒野の旅路>の記録です。彼らは、シナイを出発し、約束の地カナンへと向かって荒野を旅していくのです。そこで先ず、主によって人口調査が命ぜられ、各部隊の配置が行われました。彼らの宿営と行進は、主のご指示に従って、整然となされなければならないのです。――私たちもまた、現代という荒野の旅路を、全世界の兄弟姉妹たちと共にしています。そこでは、あなたも神の民の一員に数えられています。主は、あなたの名前を呼んでおられ、「君にはこの部署を頼むよ」と持ち場を与えておられます。私たちは皆、主の恵みによって、神の軍勢の一翼を担わされているのです。――ただの文字の羅列に見える民数記に驚かず、この書からも、<荒野に滴り落ちる主の恵み>を受け続けていきましょう。

第3章1節〜51節(レビ人の務め・レビ人の人口調査・ゲルションの氏族とその務め・メラリの氏族とその務め・モーセおよびアロンとその子らの務め・イスラエル人の代わりをするレビ人)

2003年9月19日(金)
神の民の秩序が示されます。祭司はアロン・エルアザル・イタマルの三人で幕屋の東に宿営します。そして彼らを補佐するのがレビ人です。ゲルション族は幕屋の西に、ケハト族は南に、メラリ族は北に宿営します。レビ人はまた民全体の奉仕を代表する者でもあります。私たち各自に与えられた神様への奉仕を思い、主に仕えましょう。

第4章1節〜49節(ケハトの氏族とその務め・ゲルションの氏族とその務め・メラリの氏族とその務め・レビ人の人口調査)

2003年9月20日(土)
先に、イスラエル共同体において、部族ごとの配置が行われました(2章)。その中心には幕屋(神臨在の場)が位置し、その周囲にレビ人が宿営します。荒野を旅するイスラエルにおいては幕屋がその中心であり、レビ人は専らその聖務に当たるよう命じられた者たちなのです。そしてレビ人には三氏族ありました。ゲルション・ケハト・メラリです。それぞれの氏族ごとに、臨在の幕屋に関わる職務が与えられたのです。――私たちにも、幕屋すなわち礼拝に関わる務めが与えられています。司式をする者、み言葉を取り次ぐ者、民の賛美を導く者、受付をする者、会堂を清掃する者、花を生ける者、週報を準備する者・・・。しかし、もし「今週は当番が当たっていない」という時でも、教会員すべてに役割が与えられています。み言葉を読んで祈り、献金の備えをし、明日に備えることです。私たち全員に、神の聖務が与えられているのです。

第5章1節〜31節(汚れた者を分離せよ・祭司が受ける分・姦淫の疑惑を持たれた妻の判決法)

2003年9月21日(日)
約束の地カナンへと向かって荒野を旅するイスラエル!それが、民数記が描き出す神の民の姿です。それは、御国の完成へと向かって旅する私たち自身の姿と重なります。さて本章の中心は、主がイスラエルのただ中に臨在しておられる、ということです。幕屋(礼拝所)のみならず宿営(住居)においても、主は民と共におられるのです。即ち、夫婦に代表される日常の人間関係のただ中にも、主は臨在しておられるのです。――今日一日神様は、あなたとあなたの妻との会話に、夫との会話に、子供との会話に、耳を傾けておられます。家庭のただ中に臨在しておられる神、平凡な日常生活の人間関係のただ中にいます神、それが<荒野の民の中に住まわれる私たちの神>です。

第6章1節〜第7章89節(ナジル人の誓願・祭司による祝福・イスラエルの指導者の捧げ物・神、モーセに語りかけられる)

2003年9月22日(月)
ナジル人!それは<一定期間主に身を献げる誓願を立てた者>のことです。その誓願期間中、彼らは三つのことを厳守しなければなりません。@ぶどうの類を一切断つことA髪の毛を切らないことB死者に触れないこと、です。@は豊満な生活に溺れないためAは神への献身のしるしBは神に属する者は生命に属するため、求められています。そしてそれら一切は、ナジル人の存在そのものが、神様の御用のために献げられたものだからです。――今日の教会にはナジル人の誓願制度はありません。けれども私たちは、礼拝の献金において、私たち自身を主にお献げします。献金は、お金を献げることのみならず、私たち自身を主に献げる<感謝の応答>です。主なる神様は、私たち自身の故にではなく、主イエスの故に、私たちの献身を受け入れて下さいます。そして主は、御手にすべてを委ねる者を豊かに祝福して下さるのです(6:22以下)。

第8章1節〜26節(燭台のともし火皿・レビ人の清めの儀式・レビ人の任期)

2003年9月23日(火)
旅する神の民イスラエル!彼らは荒野に天幕(テント)を張りながら、約束の地へと旅を続けます。その隊伍の中心には幕屋(礼拝所)があります。本章はその幕屋に仕える<レビ人の選び>です。神様が民の中から彼らを選び、彼らは<神への奉納物>として召されます。しかしその目的は何でしょうか?19節に「それは、レビ人が臨在の幕屋でイスラエルの人々のために作業に従事し、彼らのために贖いの儀式を行い、イスラエルの人々が聖所に近づいても、災いが彼らにふりかからないためである」とあります。――主なる神様が、私たちをみ側近くに召し集めたもう時、どれ程の配慮と準備をなさっておられることか!本章はその恵みの事実を告げています。神様は、礼拝に必要な奉仕者を立て、十字架と復活の主キリストの元へと私たちを招き、私たちはそこで元気を得て、約束の地へと向かって再出発することができるのです。

第9章1節〜第10章28節(月遅れの過越の規定・雲が幕屋を覆う・二本の銀のラッパ・シナイ出発)

2003年9月24日(水)
イスラエルは荒野を旅しており、約束の地カナンへの途上にあります。しかしこの旅路は、一体どこでどうやって始まったのでしょうか。それは、神の救い、即ちエジプト脱出に始まったのでした。あの日以来、イスラエルはエジプトを後にして、神様が「行け」と言われる地に向かって巡礼しているのです。――本日の聖書において神様は「あの救いの日を忘れず、過越祭を定期的に祝いなさい」と言っておられます。そして過越祭を祝いながら旅するイスラエルは、神の出発命令と共に出発し、神の待機命令と共に待機しつつ、約束の地へと前進して行くのです。――私たちもまた、自らの救われた日を繰り返し思い起こし、主の食卓に与ること許された恵みに感謝しつつ、御国の完成へと向かって進みます。主の前進命令と共に、主の待機命令と共に。

第10章29節〜36節(モーセとホハブ・契約の箱)

2003年9月25日(木)
モーセがここで「一緒に行きましょう」と誘っているのは、同胞ではなくて異邦の民ミディアン人です。しかも彼は「私たちはあなたを幸せにします」と全く大胆な言葉を口にしています。――ここには、神の国へと旅する教会の、その伝道の姿が明示されています。教会は、主の再臨を待ち望みつつ、御国の完成へと向かって急ぎます。その途上にあって「あなたも一緒に行きましょう」「私たちはあなたを幸せにします」と宣べて伝道に励むのです。それは勢力拡大ではなく主の約束に基づく業なのです。

第11章1節〜30節(民の不満)

2003年9月26日(金)
先に神の民イスラエルは<主に対する従順>を示しました。主の出発命令と共に出発し、主の待機命令と共に待機しつつ、彼らは進みました。しかし本章においてイスラエルは<主に対する執拗な不従順>を示しています。彼らは今や「エジプトの方がましだった」と言い出し「水がない食料がない」と激しく不満を口にします。これに対して主は遂に憤りを顕わにされて、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営を端から焼き尽くそうとします。神の憤りの炎が燃え上がったのです。――本章は教会に対する主の審きを語っています。しかし見よ、主がいかに忍耐強く、配慮に満ちておられるかを(16-23節)。主は、民の立ち返りと、民の従順な歩みを待っておられるのです。

第11章31節〜第12章16節(うずら・ミリアムとアロン)

2003年9月27日(土)
礼拝において神の言葉を語る者(説教者)は、正規の手続きを経て、主によって立てられた者でなければなりません。また礼拝者各自は、そのことを信じて礼拝に臨み、み言葉を聴くことが不可欠です。本日の聖書箇所は礼拝における秩序を語っています。

第13章1節〜24節(カナン偵察)

2003年9月28日(日)
荒野を旅する神の民イスラエル!その姿を、私たちは、御国へと旅する私たち自身の姿に重ねて民数記を読んでいます。現代世界もまた、荒涼たる砂漠を感じさせるに十分だからです。
さて、ここで主なる神は「約束の地に偵察隊を派遣せよ」とモーセにお命じになります。モーセは即座に隊を編成しますが、注目はモーセの後継者ヨシュアがメンバーに入っていることです。彼らに託された使命は、カナンの地の良し悪しをあらゆる点にわたって見極めてくることです。――その偵察の最後、聖書は驚くべき光景を描いています。棒にぶら下がったぶどう一房を、大人二人で担いでいます。何という巨大なぶどうの房でしょう! 神様が導き入れようとしておられる約束の地、そこがいかに豊かな地であるかをこのぶどうは物語っているのです。――今日は主の日、主のご復活を記念する日です。神様は、礼拝において、神の国の豊かさを前もって垣間見させて下さいます。神様は、主キリストの故に私たちを赦して下さり、主と共に生きる永遠の命を与えて下さいました。あの巨大ぶどうに勝る、主の巨大な恵みです。

第13章25節〜第14章10節(カナン偵察・民の反抗)

2003年9月29日(月)
約束の地カナンは、実りは豊かでしたが敵は強大でした。その状況判断については全ての者が一致した見解です。それゆえ偵察隊の十人は「あの民に向かって上っていくのは不可能だ」と報告し、民を多いに動揺させました。しかしカレブとヨシュアの二人は「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」と言い切ります。これは一体どうしたことでしょう? 敵は強いという状況判断は同じですが、一方は恐れ、一方は勝利を確信しています。十人は巨大な敵と自分たちとを比較していますが、カレブとヨシュアは目前の敵と主なる神とを比較しているのです。「もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えて下さるであろう(14:8)。」――どんなに恐ろしい敵も、もし主なる神様が味方であるなら何ほどの者でしょう(ロマ8:31)。今日一日、その御子をさえ惜しまず死に渡された愛なる神により頼んで、荒野の旅路を健やかに更に一歩前進させましょう。

第14章11節〜45節(民の反抗・土地侵入の最初の企て)

2003年9月30日(火)
カレブとヨシュアの発言を聞き、イスラエルの民は二人を殺そうとします。強大な敵を前にした恐れは、主により頼む者への殺意に変わったのです。これをご覧になっておられた主は「この民はいつまで私を侮るのか」と怒りを顕にされます。モーセは主の約束に取り縋り、民の罪を赦して下さるよう主に懇願します。――本日の聖書箇所でカレブとヨシュアの二人だけが約束の地に入る者とされました。そしてこの日この時から荒野の四十年が始まったのです。――その事実を告げられた民は深く嘆きました。しかし彼らは真に回心してはいません。主が示された迂回路を無視し、敵の待つ山頂へと彼らは突進していくのです。しかし「主の契約の箱とモーセは宿営から離れなかった。」主の審きを告げるみ言葉です。――イエスをキリストと信じる信仰によってのみ神に赦され義とされる。今日という日に救い主の元へ立ち返りましょう。

第15章1節〜41節(捧げ物に関する補則・安息日の違反・衣服の房)

2003年10月1日(水)
なぜここに献げ物に関する規定が始まるのか、続き具合がうまくないと思われたかもしれません。しかし注目しましょう。神様は「私が与える土地にあなたたちが行って住む時」と言っておられるのです。即ち神様は、イスラエルをなお見捨てず、民の子孫を約束の地に導き入れるご意思なのです。先に民がその不信仰ゆえに大いなる審きを経験したことを思い合わせる時、本章は恵みの章となります。荒野に放り出され、行方を失っていた民に「私が与える土地にあなたたちが行って住む時」と神様は言って下さったのです。――私たちが、私たちの不信仰ゆえに道を踏み外し、行方を失う時、主が主の方から来て下さり、私たちの神となって下さるのです。今日一日の歩み、赦しの主があなたと共におられます。安心して主と共に歩みましょう。

第16章1節〜11節(コラ、ダタン、アビラムの反逆)

2003年10月2日(木)
私たち福音主義教会ではローマ・カトリック教会のように<聖職者と信徒の身分的格差>はありません。その意味で、コラたちが「共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって」と言っているのは正しいことです。しかし私たちの教会においても<教師と信徒の役割の違い>が存在します。教師は、聖書に基づいて神の言葉を語り、また教えるために立てられた者です。それゆえ、礼拝における説教及び聖礼典の執行は、教師によって行われるのが原則です。その意味でコラたちが「なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか」と言っているのは不当なことです。彼らは、自分たちが祭司を支えるレビ人として立てられたことに満足できないでいるのです。――本章は、主が誰を何の役割に立てておられるか、その秩序を問題にしています。私たちは、牧師・長老・信徒それぞれに主から与えられた役割に忠実でありたいと思います。

第16章12節〜第17章15節(コラ、ダタン、アビラムの反逆・香炉・アロン、民を救う)

2003年10月3日(金)
荒野を旅するイスラエルが直面した問題は主に三つありました。@水と食料の問題A外敵の問題B内部の秩序崩壊の問題、です。本日はBの問題ですが、コラ・ダタン・アビラムが反逆して立ち上がりました。神様によって立てられた<祭司・レビ人・イスラエルの民>という秩序を彼らは崩壊させようとしたのです(3章・12章参照)。これに対して、主の怒りが天から激しく臨みました。――17:12を深く受け止め、仲保者キリストの贖いの恵みに立ち返りましょう。

第17章16節〜第18章32節(アロンの杖・祭司とレビ人に関する規定)

2003年10月4日(土)
本日の聖書箇所の中心メッセージは<秩序の回復>です。<祭司・レビ人・イスラエルの民>の間に立てられた秩序が、コラたちの反逆によって危機に瀕していました。しかし、ここに、その秩序が主によって回復させられていくのです。――私たちは、牧師・長老・信徒として、それぞれに主から与えられた役割を果たしつつ、明日の主日礼拝に備えたいと思います。

第19章1節〜22節(清めの水)

2003年10月5日(日)
この規定が語られている文脈が大切です。先にイスラエルはコラたちの反乱により大いに動揺しました。神様が与えて下さった<祭司・レビ人・イスラエルの民>という聖なる秩序が破壊され、混乱が生じました。その文脈の中で、18章では主によって祭司職が改めて確立され、レビ人固有の役割が再確認されました。そして、本日の19章では、民全体に対して「清くあれ」との恵みの御言葉が賦与されているのです。――今日は主の日です。本日、主は、<牧師・長老・信徒>という教会の秩序を回復して下さり、「あなたがたは私の民、聖なる国民である」と宣言して下さるのです。

第20章1節〜13節(メリバの水)

2003年10月6日(月)
モーセは偉大な指導者でした。しかしモーセにも罪の事実がありました。主は「彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい」と言われました。しかしモーセは手を上げ、その杖で岩を二度打ったのです。「水を出せ」との言葉だけで十分だったのに、二度も杖を振りかざしました。――なぜ、そんな些細なことが主に対する罪になるのかと私たちは思います。けれども主がここで問題にしておられるのは「私の聖なることを示さなかった」という一点です。モーセは、主に信頼して、岩に向かってみ言葉を告げ、主の聖なることを現すよう求められていたのです。しかし彼は、自分の力をも示し、自分自身を現しました。そしてその不従順の故に、約束の地に入ることを禁じられたのです。――ここに、主に聴き従うことの厳しさを思わずにおれません。しかし同時に私たちは、主イエスの故に、聖霊の導きにより、御国に入ることが許されている素晴らしさを思わずにおれません。パウロは言います。「彼らが飲んだのは、自分たちについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです(参照箇所)。」現代という荒野を旅する私たちにも、この<霊的な救いの岩>が与えられていま す。このお方から命の水をいただき、御国への旅路を新たにしましょう。

第20章14節〜29節(エドム王との交渉・アロンの死)

2003年10月7日(火)
イスラエルの荒野の旅路には様々なことが起こってきます。兄弟関係にあるエドムの王が「通らせて欲しい」との要請に応じてくれません。通過させてくれるだろうという期待が見事に砕かれます。そのため、イスラエルはこの度は迂回を余儀なくされるのです。またイスラエルの共同体全体は、再出発後ホル山に到着します。しかし、長らく旅路を共にしてきた祭司アロンがこの山で主に召されるのです。主は、先のメリバの一件に言及され「それゆえ、アロンの旅路はここまでである」と言われました。――今日一日の歩み、思わぬ仕方で道が塞がれ、迂回を余儀なくされることがあるかも知れません。また、神の赦しあって、今日の一日(ひとひ)を生きることが許されています。再臨の主を待ち望みつつ、今日一日、聖霊の導きに従って歩みましょう。

第21章1節〜9節(カナン人に対する勝利・青銅の蛇)

2003年10月8日(水)
「炎の蛇」と呼ばれているのは、噛まれると全身が焼けるようになるからです。逆らい続ける民に向かって、主は炎の蛇を送られました。これに多くの者が倒れます。しかし、モーセの執り成しが受け入れられ、主は救いの御手を伸べて下さいました。しかしその救いが不思議です。「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」というのです。――後に新約聖書は、この青銅の蛇を十字架上の主イエスに重ねて受け止めました。即ち、罪の死毒に侵されている人間も、十字架上の主イエスを仰ぐとき、癒され、命を得るのです。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです(ペトロ一2:24)。」アーメン。

第21章10節〜35節(モアブの谷までの旅・シホンとオグに対する勝利)

2003年10月9日(木)
イスラエルの旅程が記されています。しかしその地名の一つ一つは単なる羅列ではありません。神と共に歩んだ記憶が刻み込まれている地名です。とりわけ、民の脳裏に鮮明に蘇ってくるのは、荒野にあって主から恵みの水を頂いた日のこと、約束の地を目前にして主から勝利を賜った日のこと、です。――神と共に歩んだ日々を振り返る時、私たちもまた<ベエルの恵み><シホンとオグに対する勝利>を想起することができます。今日という一日も、主と共に歩む恵みの日として刻まれるのです。

第22章1節〜35節(バラクとバラム・バラムとろば)

2003年10月10日(金)
バラクの我がままな要請を受け、遂にバラムは出発します。しかしその行く手に、主の御使いが立ち塞がっているではありませんか。これに気付いたのはロバでした。しかも主はロバの口を開き、み言葉を語らせるのです。そして最後、バラクもまた主によって目が開かれ、御使いを見るのです。実に不思議な話!しかし、主によってみ言葉が語られ、目が開かれ、神の御前にひれ伏す話です。礼拝と日常生活に働く神です!

第22章36節〜40節(バラクとバラムの会見)

2003年10月11日(土)
主なる神が説教者に求めておられることは、神がその口に授けられる言葉だけを告げることです。また、主なる神が会衆に求めておられることは、説教者を人間的にもてなし優遇することではなくて、神の言葉を慕い求めて祈ることです。本日の聖書箇所はその神の御旨を明示しています。明日の主日礼拝に向けて、共々に備えましょう。

第22章41節〜第24章25節(バラムの託宣・バラムの第二の託宣・バラムの第三の託宣

2003年10月12日(日)
バラクは、神が何と言っておられるかを聴こうとしません。「イスラエルの侵入を何としてでも阻止したい」とする彼の願望が、み言葉の進入をも妨げているからです。バラムは、神が何と言っておられるかのみを語ります。先の試練を通して神への従順を学ばされ(22章)、「神が授けられる言葉だけを告げよう」と決心しているからです。しかし、ここに、全ての出来事を貫いているのは神のご意志であり、神の祝福です。主なる神はイスラエルを祝福し、絶対に見捨てないと決断しておられます。神の民の旅路はモアブによって妨げられ得ず、約束の地カナンはもはや目前なのです。
今日は主のご復活を記念する日です。主の十字架と復活によって、私たちは既に主のものです。御国に入るその日まで、神様はあなたを導き、守り抜いて下さるのです。

第25章1節〜19節(ペオルにおけるイスラエル)

2003年10月13日(月)
約束の地へと向かって荒野を旅するイスラエル。その旅路における最大の危機は偶像崇拝です。主なる神への節操を失い、人の言うことに聴き従い、神々を拝み始めるのです。この度イスラエルは、モアブ人との交流を通して偶像崇拝に陥りました。
これに対して主なる神は憤られます。イスラエルの上に災害が襲ってきたのです。
しかしこの主の憤りをとどめた人物がいました。祭司アロンの孫、エルアザルの息子ピネハスです。彼は、主を捨てた同胞とミディアンの女を槍で突き刺し、民の罪を贖いました。それ故祭司ピネハスは「永遠の祭司職の契約にあずかる(12節)」のです。主イエス・キリストは、神と私たちとの間に立つ<永遠の大祭司>です。主は、動物や他者の命によってではなく、御自分の体に槍を突き刺して、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さいました。ピネハスとは決定的に違う<永遠の執り成し手>なのです。

第26章1節〜65節(第二の人口調査)

2003年10月14日(火)
第二回の人口調査です。先の調査はシナイの荒野で行われました(1章)。約束の地へと再出発する直前のことでした。そして今回、モアブの平野にて調査は行われます。あれから30年以上の時が経ちました。もはや約束の地は目前です。主なる神様は約束の地に入る民の一人一人を確かめ、その名を呼ばれるのです。しかし注目しましょう。64節「その中には、モーセと祭司アロンがシナイの荒れ野でイスラエルの人々を登録したときに登録された者は一人もいなかった」のです。世代が大きく交代しました。荒野の旅路で何人もの友が倒れました。しかし主なる神の御業は続くのです。自分たちの世代に主から与えられている役割を思い、後裔たちのために祈りましょう。

第27章1節〜11節(ツェロフハドの娘たちの申し出)

2003年10月15日(水)
人口調査の結果、思わぬ問題が発生しました。事は、女児しか授からなかった父親の名が氏族の中から除かれたことに始まりました。ツェロフドの娘たちが共同体全体の前に進み出てモーセに直談判します。彼女たちは「自分たちにも所有地を与えてほしい」と必死に訴えるのでした。モーセは訴えを受け、主に御旨を尋ねます。すると主は「ツェロフドの娘たちの言い分は正しい」と明言され「娘たちにその父の嗣業の土地を渡しなさい」と言われました。――しばしば旧約聖書は男尊女卑の世界と言われます。しかし本日の聖書箇所を見落とさないようにしましょう。神様は、約束された恵みを与えようとなさる時、何らの差別もなさらない方なのです。そして神様は今日も言われます。「私の恵みはあなたに対して十分である」と(コリント二12:9)。

第27章12節〜23節(モーセの後継者ヨシュアの任命)

2003年10月16日(木)
モーセは今、神に指定された山に登り、約束の地を一望します。しかし彼自身は約束の地に入ることは許されません。メリバの水の一件で、神様の命令に背き、主の聖なることを人々の前に示さなかったからです(20章)。神様はここで、モーセに約束の地を望み見ることをお許しになっておられます。モーセの召される日は近いのです。
しかしここに、注目すべき姿があります。死期が近づいたモーセは、自分の死そのものではなく、神の民のことに最大の関心を寄せているのです。「主よ、・・どうかこの共同体を指揮する人を任命し、・・主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないで下さい(16-17節)。」このモーセの姿に<自己の死を克服する途>が示されています。自分の命を第一とせず、神様を第一として生きることこそ、死に打ち克つ途です。後に主イエスは言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と(マタイ6:33)。

第28章1節〜31節(献げ物の規定)

2003年10月17日(金)
定期の献げ物が命じられていますが、注目は「私の食物である献げ物」と言われている点です。あたかも神様がご自分の民の献げ物によって養われているかのようです。しかし知っておきましょう。私たちの祈りや賛美・奉仕や献身が主を喜ばせるのです。それらは主にとって<喜びの食物>となるのです。自己の飢え渇きばかりでなく、主の飢え渇きを知りたいと思います。そして、主と共なる喜びに生きたいと思います。

第29章1節〜第30章1節(献げ物の規定)

2003年10月18日(土)
本日の聖書を読むと<神様は年に数回、盛大な祝いを催される方だ>ということが分かります。今日で言えばイースター・ペンテコステ・クリスマスに当たるでしょうか。クリスマスが近づきつつあることを覚え、明日の<週毎の祝い>に備えましょう。

第30章2節〜17節(誓願の規定)

2003年10月19日(日)
私たちの神様は杓子定規な方ではありません。主に立てた誓願も、止むない事情により履行できなくなることがあり得るのです。本日の聖書は<立てた誓願から解かれるケース>を伝えています。――私たちが主に仕えていく時にも、止むない事情が起ってくる場合があります。健康が失われた場合、周囲の事情が許さない場合、別の義務に招かれる場合、主に仕えていく道にも変更があり得るのです。――主よ、与えられた条件の下で、与えられた賜物を用いて、あなたに精一杯仕えさせてください。

第31章1節〜54節(ミディアンに対する復讐・分捕り品の分配・指揮官たちの献げ物)

2003年10月20日(月)
主はモーセに「ミディアン人に報復せよ」と命じられました。しかも、この度の戦いには殲滅が要求されています。なぜ主なる神は、これ程までに徹底した戦いを求められるのでしょうか。それは、ミディアン人が神の民を偶像崇拝へと誘い込んだからです(25章)。ペオルにおける一件に対して、主は最終的な決着をもたらそうとしておられるのです。即ち、この戦いは<イスラエルが主のために報復する戦い>ではなくて<主が報復する戦い>なのです。――本日の聖書が示すのは、真の神礼拝を妨げる悪の勢力に対して、徹底的に戦われる神のお姿です。そしてそれは、十字架の主のお姿へと極まっていきました。主なる神様は、最終的に、敵を叩き潰す仕方ではなくて、ご自分の身に悪の刃を直接受ける仕方で勝利されました。十字架の主イエスこそ、終末において偶像崇拝に勝利される神です。

第32章1節〜42節(ルベン族とガド族の土地)

2003年10月21日(火)
約束の地を目前にしてルベンとガド族が申し出ました。「私たちの部族にはヨルダン川を渡らせないで下さい」と。自分たちには家畜が多くあり、此岸の土地が牧畜に適しているというのです。この申し出はモーセの目には罪と映りました。以前、強大な敵を見て「約束の地に入るのは不可能」と報告した偵察隊、彼らと同じ姿をモーセはここに見るのです。モーセは、彼らのゆえに共同体全体に主の激しい怒りが降り注ぐであろうと告げました。――正に神の国に入ろうとする時、私たちには最後の戦いがあります。<罪赦され、永遠の命に甦る主の御救い>に全てを委ねる戦いです。しかしこの戦いはルベンとガド族が先陣を切って突き進んでいったような戦いではありません。主イエスが既に私たちの前を歩み通しておられます。主は死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより甦られました。その主が聖霊によって私たちを捕らえ、導き、神の国へと招き入れて下さるのです。

第33章1節〜56節(エジプトを出てからの旅程・ヨルダン川を渡るにあたっての命令)

2003年10月22日(水)
約束の地を目前にして出エジプト以来の旅程が書き記されます。それは、私たちが主の御手によって世の支配から救い出され、教会へと招き入れられて以来の旅程に同じです。
エジプト脱出、それは救いの日です。大海を渡渉、それは洗礼にも似た<救いへの横断>です。マラは試練の日であり、主に対して不平を鳴らした場所です。しかしエリム、「十二の泉と七十本のなつめやし」の恵みが天から降り注ぎました。そして連続する荒野の旅路、生きて行くだけでギリギリの歩みです。イスラエルは宿営と出発を繰り返しつつ、荒野から荒野へと旅しました。ようやく辿り着いたホル山においてアロンの死。大きな出来事でした。――今、神の民はヨアブの平野に立ち、ヨルダン川対岸を見やります。すべての異教的礼拝と習慣をかなぐり捨てて、いよいよ主の約束の地に入るのです。

第34章1節〜29節(イスラエルの嗣業の土地・土地配分のために選ばれた人々)

2003年10月23日(木)
主なる神様は、嗣業の土地の領域を確定し、それぞれの部族に土地を分配されます。――教団の教会は金沢市内に7教会、南加賀には小松教会が1つ。私たちの伝道担当領域は広いのです。それは光栄なことであり、同時に知恵を要することです。長老会の上に良き知恵が与えられますように。家庭集会・関連施設が伝道の場として主に用いられますように。

第35章1節〜34節(レビ人の町・逃れの町)

2003年10月24日(金)
約束の地には<レビ人の町>と<逃れの町>がなければなりません。レビ人の町は、神に仕える者たちに割り当てられた町です。逃れの町は、過って人を殺した者が逃げ込むことができるように、神が備えられた町です。主は言っておられます。「町は、復讐する者からの逃れのために、あなたたちに用いられるであろう。人を殺した者が共同体の前に立って裁きを受ける前に、殺されることのないためである(12節)。」16節以下は<殺人は故意か偶発的かの正しい判断>を求めています。それは「殺した当人と血の復讐をする者との間を(公正に)裁かなければならない(24節)」からです。――約束の地にこの様な<逃れの町>が設定されたことは、神様の憐れみ深い配慮と驚くべき恵みです。人は、逃れの町で自らの身に起ったことを振り返り、主の憐れみ深きことを味わい知るのです。逃れの町、それは今日の教会であり、主がお立てになっておられる<救いの砦>なのです。

第36章1節〜13節(相続人が女性である場合の規定)

2003年10月25日(土)
本章は、神様から与えられた土地の所有権が、ある部族から他の部族へと移ってしまう可能性に対処しようとしています。土地を父から受け継いだ娘が嫁いでいく場合。ヨベルの年に土地が元の所有者に返還される場合。これらの場合に所有権の移動が確定してしまうかもしれないのです。――本章を貫いているのは<神様は嗣業の土地を民全体に配分しておられる>との信仰です。それゆえ彼らは、自分たちの部族に与えられた土地を守り抜こうとしているのです。主は、全世界の諸教会に、その恵みを配分しておられるのです。


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