レビ記


第1章1節〜17節(焼き尽くす捧げ物)

2003年8月24日(日)
出エジプト記は幕屋の完成をもって閉じられました。続くレビ記は、その幕屋での礼拝について主が命じられたことを記しています。そしてその第一が<焼き尽くす献げ物>です。牛、羊、山羊、鳩が焼き尽くされ、主に献げられます。――あなたは本章を読んでどんな感想を持たれたでしょうか。面倒な記述に嫌気が差したでしょうか。自分にはあまり関係の無い話だと思われたかもしれません。しかしレビ記1章は、私たちの救いに関わる決定的な真理を語っています。即ちそれは「血を流すことなしには罪の赦しはありえない(ヘブライ9:22)」という真理です。――主なる神は、礼拝において<罪の赦しの手続き>をお求めになります。そしてそのことのために、牛や羊の血が実際に流されました。しかし主は最後、御自身を犠牲にして、私たちの<罪の赦しの手続き>を完成して下さいました。即ち「キリストは、・・雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです(ヘブライ9:12)。」レビ記1章は<主の十字架>を指し示しています。

第2章1節〜第3章17節(穀物の捧げ物・和解の捧げ物)

2003年8月25日(月)
神の民イスラエルは約束の地へと向かって荒れ野を旅します。そしてその旅路は、幕屋での礼拝によって支えられ導かれました。――本日の聖書箇所を読んで改めて思わされることは、その礼拝が<献げ物を中心とした礼拝>であった、ということです。穀物の献げ物は、上等の小麦粉にオリーブ油を混ぜ、焼いたり蒸したりして献げられます。和解の献げ物は、牛や羊が献げられますが、その最も良い部分が神に献げられます。即ち「脂肪はすべて主のもの」なのです。――賛美歌第二編188番は私たちの献身を歌う歌ですが、最後にこう賛美されます。
どんな善い業も キリスト・イェスの  十字架の愛には くらべられない。
キリスト・イェスの十字架より善い神への献げ物はあり得ません。しかし神様は、主キリストのゆえに、私たちの献げ物をも受け入れて下さいます。今日一日、主キリストのゆえに、私たち自身を<神様に喜ばれる生きたいけにえ>として献げましょう。

第4章1節〜35節(贖罪の捧げ物)

2003年8月26日(火)
宗教的儀式は躍動感に欠けるようですが、そうではありません。それは真剣そのものであり、その背後には躍動する現実、即ち<人間の罪と神の赦し>があります。13節にこうあります。「イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合、そのことが会衆の目にあらわにならなくても、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、その違反の罪に気づいたときは、会衆は若い雄牛を贖罪の献げ物としてささげ、それを臨在の幕屋の前に引いて行く。」――主なる神様は、あの聖なる夜に、愛する独り子を世に与えて下さいました。御子は、黙って、ゴルゴタの丘に引いて行かれました。それは、レビ記4〜5章を完成する、神御自身による<贖罪の献げ物>だったのです。

第5章1節〜26節(贖罪の捧げ物・賠償の捧げ物))

2003年8月27日(水)
1節がどういう状況を指しているのか分かりにくいかもしれません。しかしこれは<事件に巻き込まれた隣人のために、法廷で証言するのを拒否する罪>を語っているのです。自分が真実を語ることで隣人が助かる。しかし何らかの理由でそれを語ろうとしない不誠実です。――私たちの教会の先達たちはこのレビ記5:1を真剣に受け止めてきました(上記@D)。それは、神の御前にあって誠実な言葉を語り、隣人の名誉を守ることを重んじてきたからです。今日一日、神の御前に、隣人のために生きましょう。

第6章1節〜23節(各種の捧げ物の施行細則)

2003年8月28日(木)
祭壇の上の火を絶やさず燃やし続けること、それが祭司の務めです。朝ごとに彼らは身なりを整え、薪をくべ、祭壇の火を絶やすことがないのです。――私たちは朝ごとに信仰の火をともしているでしょうか。ある人は言いました。「祭司が朝ごとに薪を燃やしたように、朝に聖書のみ言葉に聴き、信仰の火をともすことを怠るキリスト者は、その日一日そうする時のないことを直ちに発見するであろう」と。――主のみ言葉はあなたの近くにあります。主のみ言葉のご支配を受け、今日を生きましょう。

第7章1節〜38節(各種の捧げ物の施行細則・和解の捧げ物の施行細則)

2003年8月29日(金)
「その人は自分が属する民から断たれる(20、21節)。」一瞬ドキッとする言葉ですが「教会の外に救いなし」という古くからの金言を思い起こさせてくれます。私たちは神様がお選びになった<信仰者の群れ=教会>に加えられて、救われたのです。

第8章1節〜36節(祭司の聖別の任職式)

2003年8月30日(土)
祭司の任職式です。祭司はこの任職式によって立てられ、神と民との間に立ち、主の御業を執り行う者とされます。しかし、神様のご指示の何と厳格なことでしょうか。35節には「主の託せられたことを守り、死ぬことのないようにしなさい」と言われている程です。――今や、キリスト者はすべて、神によって立てられた祭司です。神様と未信者との間に立ち、執り成しの祈りに生きることがその務めです。しかし、その時に忘れてはなりません。本来、その様な高貴な務めに就くことなどできるはずのない私たちが、ただ主キリストの血によって、その職に任ぜられたのです。――明日、私たちは、全世界の祭司として、主の御前に出ることがゆるされているのです。

第9章1節〜24節(アロンによる捧げ物の初執行・アロンの祝福)

2003年8月31日(日)
22〜24節のみ言葉は次のように聴くことがゆるされるでしょう。「牧師は手を上げて民を祝福した。彼が、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を語り終え、民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた。そのとき主の御前から聖霊が降り、民の献げ物をすべて受け入れて下さった。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。」――本日、教会の礼拝での出来事です。

第10章1節〜20節(祭司ナダブとアビフの違反)

2003年9月1日(月)
アロンの子、ナダブとアビブの話。彼らは香炉に炭火を入れ、その上に香をたいて主に献げます。しかし、そこで使用した炭火は主が命じておられたものではありませんでした。そのため、主は彼らに対して怒りを発し、二人は火で焼き滅ぼされたのです。このナダブとアビブの話を通して、神様は私たちに何を語っておられるのでしょうか。それは、正しい神礼拝は、神様が命じておられる仕方で献げられなければならない、ということです。即ち礼拝は「私たちはこういう礼拝がやりたいです」ということによって為されてはならず、「神様はどういう礼拝を求めておられるか」という一点がすべてなのです。――今日、神様が求めておられる礼拝は、この方の御前にひれ伏し、聖書に基づいてみ言葉を聴き、そのみ言葉に応答していく礼拝です。そしてその中心に立っておられるのは、永遠に有効な贖罪の献げ物、主イエス・キリストです。

第11章1節〜第12章8節(清いものと汚れたものに関する規定・出産についての規定)

2003年9月2日(火)
今日の私たちにとって少なからず違和感を覚える聖書箇所です。しかしレビ記11〜16章の急所は次の一点です。即ち「私はあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。私が聖なる者だからである(11:44)。」――教会は<キリストの衣を身にまとった者たちの群れ>です。神様は、キリストの衣を身にまとった私たちをご覧になり、「あなたたちは私の前に聖なる者だ」と言って下さるのです。主キリストが聖であるゆえに教会も聖です。それは、私たちの罪と不完全さにもかかわらず、主キリストと私たちとが聖霊によって一つとされたからです。

第13章1節〜第14章57節(皮膚病・清めの儀式・家畜に生じるかび)

2003年9月3日(水)
神様にとって、私たちが汚れから清められることがとんなに重大なことか!本日の聖書箇所からそれが伝わってきます。そしてレビ記13〜14章は、ただひたすら一人のお方を指差しています。私たちの主イエス・キリストです。――「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、私を清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった(マルコ1:40-42)。」――今日、あなたがひざまずいて主に願う時、主はあなたを深く憐れんで、その御手を差し伸べ、あなたに触れて下さいます。あなたの汚れを主は引き受けて下さり、主は御自分の清さをあなたに与えて下さるのです。

第15章1節〜32節(男女の漏出による汚れと清め)

2003年9月4日(木)
このレビ記15章の規定を今日の私たちにそのまま適応することはできません。しかし主イエスの時代には現実的な規定でした。それ故レビ記15章は、あの一人の女性と主との出会いを力強く証しているのです。「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群集の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。・・イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい(マルコ5:25-34)。』」――主イエスは、私たちの不治の病、神に逆らう罪をいやす方です。

第16章1節〜34節(贖罪日)

2003年9月5日(金)
アザゼルのための雄山羊!この雄山羊は<贖罪の献げ物>ですが、他の場合とは異なります。即ち、通常牛・羊・山羊は屠られて後に献げられますが、この雄山羊は生きたまま荒れ野に放逐されるのです。そこには通常以上の凄まじさがあります。人々の罪をすべて背負わされ、生きたまま<無人の荒れ野>に追いやられ、やがてはそこで息絶えていくのです。――十字架上の主イエスは最後「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれ、息を引き取られました。主は<無人の荒れ野>=<神なきところ>に追いやられた方、否そこへと自ら赴かれた方です。それは、私たちの罪を担われた主が、私たちが追いやられるべき<神なきところ>へと赴かれた、ということです。――今や、たとえ死の陰の谷を行くときも、あなたには十字架と復活の主が共におられます。生きるにも死ぬにも、今や私たちは主のものなのです。

第17章1節〜9節(捧げ物をささげる場所)

2003年9月6日(土)
この短い箇所は次の事実を告げています。即ち、私たちがささげる公の礼拝、その<時と場所>は神様がご指定なさることである、ということです(レビ6:1〜6も参照)。私たちは明日、神様がお決めになった<時間と場所>で、主を礼拝するのです。

第17章10節〜16節(血を飲むな)

2003年9月7日(日)
旧約において<血を食すること>は神に厳禁されていました。血は命であり、命は神に属するものであるゆえに、<血を食すること>は神の主権を侵すことだからです。しかし、主イエスは最後の晩餐の席上でこう宣言されました。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である(マタイ26:27-28)。」主は、ここで、旧約の御言葉を乗り越えておられます。しかし、旧新約を通して一貫しているのは、血は命そのものとして<罪人の贖い>を成し遂げるものである、という信仰です(11節)。――十字架上で血を流される主のお姿を仰ぐ時、「汝の罪、赦されたり」とのみ声が聞こえてきます。主は、御自分の命のすべてを注ぎ出し、あなたの贖いを成し遂げてくださったのです。いわゆる<輸血問題>も<人を生かすために>という観点から考えられるべきだと思います。

第18章1節〜30節(いとうべき性関係)

2003年9月8日(月)
私たちの教会は「み言葉によって常に改革される」という姿勢を受け継いできました。それは「主よ、あなたのみ言葉によって私を造り変えて下さい」という<しなやかな祈りの心>に生きることです。――み言葉は語りかけます。「あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、私がこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。・・私の法を行い、私の掟を守り、それに従って歩みなさい。私はあなたたちの神、主である。」――このみ言葉に聴き従い、共に祈りましょう。主よ、私たちを新しくして下さい。私たちの全存在をあなたのものとして下さい。

第19章1節〜16節(聖なる者となれ)

2003年9月9日(火)
神の御旨に適う生活が記されています。特に15節に注目しましょう。「・・あなたたちは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。」主はここで「あなたは人に対して本当に正しい者であれ」と言っておられます。即ち「弱者をかわいそうだからと言って偏ってかばってはならない」と主は言われるのです。また同時に「力ある者におもねるな」とも言っておられます。いかに主が<公正な裁き>を愛し、またそれを求めておられるかが分かります。――今日一日、弱い人を偏りかばうことなく、実力者におもねることなく、主の僕として生きたいと思います。それこそが、神の僕の生活、真に自由な人の生活なのですから。

第19章17節〜37節(聖なる者となれ)

2003年9月10日(水)
生活に関わる<道徳律法>です。当時と今では事情は異なりますが、神様が生活の一場面一場面に目を注いでおられることに変わりはありません。そして、これらの<道徳律法>には「私はあなたたちの神、主である」「私は主である」とのみ言葉が15回も繰り返されています。それは<神の民の生活は、いつでも神の御前にある生活!>ということです。――今日一日、私たちもまた、神の御前にあって、神と共に生きましょう。コーラム・デオ(=神の御前)! それが、私たちの<生活綱領>です。

第20章1節〜27節(死刑に関する規定)

2003年9月11日(木)
『ウェストミンスター大教理問答』は次のように告白しています。(問95)道徳律法は、すべての人間に対して、どの様な効用がありますか。(答)道徳律法は、@すべての人間に、神の清い性質と御心を悟らせるのに効用があります。また、A彼らに、自分たちがそれを守り得ないことと、自分たちの本性・心・生活が罪に汚れていることを悟らせるのに効用があります。更に、B自分たちの罪と悲惨を自覚してへりくだるようにさせ、それによって彼らが、キリストを必要としていることと、キリストの従順の完全さとを一層よく見てとることができるようにさせるのに効用があります。――レビ記20章を読む時、私たちは、自分が神の御前にあって死に値する者であることをハッキリ悟らされます。そして、私たちが、キリストを必要としていることを。主キリストのゆえに、神はあなたを赦し、神の聖なる者として下さったのです(26節)。

第21章1節〜第22章33節(祭司の汚れ・聖なる捧げ物について)

2003年9月12日(金)
この二章を読んでどんな感想を持たれたでしょうか。祭司(とりわけ大祭司)は、徹底的に<神のみ言葉に従って聖>であることが求められています。また、祭司によって献げられる献げ物もまた<神のみ言葉に従って聖>であることが求められています。――主イエス・キリストは、神の御心に適う唯一の大祭司にして、同時に献げ物そのものと成って下さった方です。その意味で、レビ記は常に主イエスのお姿を指し示しています。次の新約のみ言葉を深く味わい、完全な者とされた喜びに生きましょう。「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです。・・なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです(ヘブライ10:10-14)。」

第23章1節〜44節(主の祝祭日)

2003年9月13日(土)
ある人からこんな話を聞いたことがあります。自分が洗礼を受けた日、会計長老から言われた。献金は前日に用意しておきなさい。紙幣の場合は新札を。でも時々「新札がない」ということが起こる。その時のために秘密の方法を教えよう。お札に水を吹きかけ、アイロンがけするんだよ。――明日の聖会に備える!レビ記23章の心です。

第24章1節〜23節(常夜灯・12個のパン・神の御名を冒涜する者)

2003年9月14日(日)
実に厳しい物語です。神の御名を冒涜した男の死が告げられています。
畏れと敬虔によらないでは、神の聖なる御名を用いてはならないのです。
しかし、神様は「私の名を一切口にするな」と言っておられるのではありません。
御名が正しく呼び求められることを、神様は待っておられるのです。
詩編50:15「悩みの日にわたしを呼べ。わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。」――今日、私たちは助けを求めて、神を呼び求めてよいのです。

第25章1節〜55節(安息の年とヨベルの年)

2003年9月15日(月)
第七日が安息日であるように、第七年は安息年です。イスラエルの民は、主の安息のサイクルの中で暮らしました。週ごとに安息日を祝い、第七年に安息年を祝い、そして五十年目に「ヨベルの年」を祝うのです。またイスラエルにおいては、土地は神様の所有であって、いかなる人の所有でもないと考えられました。自分たちが住んでいる土地は、神様が配分され、神様から貸し与えられた<嗣業の土地>!それが、聖書の信仰です。――さて、本章の中心メッセージは<買戻し>にあります。「ヨベルの年」には、土地が買い戻され、家屋が買い戻され、身売りしていた人が買い戻されます。イスラエルの者たちすべてが、本来あるべき場所へと買い戻されていく、それが喜びの年「ヨベルの年」です。――私たちを買い戻して下さったのは、主イエス・キリストです。神から遠く離れていた私たちが、キリストの血によって近い者とされました。正に「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです(コリント一6:20)。」

第26章1節〜46節(偶像を拝んではならない)

2003年9月16日(火)
<神への従順に対する祝福>と<不従順に対する懲らしめ>が対置されています。
方や、自然の恵み・平安・勝利・繁栄・神共にいます幸いが約束されており、方や、病苦・不作・敗北・野獣の害・戦争・疫病・飢饉・・・と続きます。本章を通して、神様は私たちに何を語っておられるのでしょうか。それは、大いなる祝福の約束であり、悔いし砕けたる魂に対する「私の元に立ち返れ」との呼びかけです。「だから聖霊がこう言われる通りです。『今日あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けた頃、神に反抗した時のように心を頑なにしてはならない』と(ヘブライ3:7-8)」

第27章1節〜34節(捧げ物)

2003年9月17日(水)
レビ記を締めくくるに相応しい章だと思います。なぜなら、ここに記されているのは<献げる信仰>だからです。しかしそれは"神様に対する民の良い心がけ"に根ざすものではありません。"イスラエルに対する神様の救いの御業"に根ざすものです。イスラエルの<献げる信仰>は、神の救いの御業(出エジプト)に対する感謝の応答なのです。本日レビ記を読み終えるに当たり、以下の問答を味わい、私たちの<献げる信仰>を新たにしましょう。(問)なぜキリスト者には祈りが必要なのですか。(答)なぜなら、祈りは、神が私たちにお求めになる感謝の<最も重要な部分>だからです。


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