出エジプト記


第1章1節〜22節(エジプトでのイスラエル人・男児殺害の命令・モーセの生い立ち)

2003年7月2日(水)
人々を強制労働で虐待し、幼子の命を奪い取るファラオ。このファラオは、今日もその姿形を変えて実在しています。とりわけ、子供たちの心と命を蝕む<悪しき力>が今増大しつつあります。ファラオは「子供の命など自分の好きにできる」と考えているのです。――暗雲が漂う本章に、一筋の光が見えます。「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにせず、男の子も生かしておいた。」神を畏れていたので! 助産婦たちは<子供たちの命は神のもの><神様がお造りになった命>と信じています。そして彼らを救うために、その知恵と立場を最大限に用いています。――私たちの身近にいる子供たちのために、共に祈りましょう。大人も子供も<悪しき力>から救い出されますように。天の父よ、み国を来たらせたまえ。・・私たちを試みに会わせず悪より救い出したまえ。アーメン。(マタイ1:16〜23参照)

第2章1節〜25節(モーセの生い立ち・エジプトからの逃亡)

2003年7月3日(木)
「労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。」あなたの叫び声が神に届いた!その瞬間のあることを聖書は告げています。すると、神様はどうされるのか。「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」神が<恵みの契約>を思い起こされる。それは、神様が「あなたを救う」とご決断なさる瞬間です。そして聖書は続けます。「神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」と。――神の顧みは、<人を虐待する悪しき力>からあなたを守る<全能の神の愛>です。今日一日、神の顧みを身に受けて、主の平安の中を歩みましょう。

第3章1節〜22節(モーセの召命)

2003年7月4日(金)
聖書の神は、あなたの名を呼ばれる神です。なぜ神は人を呼び出されるのか。それは使命を与えるためです。自分のために生きてきた人生が、神のために生きる人生に変えられるのです。――神に呼び出されたモーセは、神の使命になかなか応えようとしません。与えられた使命は自分には過分だし、第一人々が認めてくれるはずはないからです。しかし、主なる神が一度「君を用いてこの事を成す」と言われたなら、すべてが備え与えられるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである(12節)。」アーメン。

第4章1節〜31節(使命に伴うしるし・モーセ、エジプトに戻る)

2003年7月5日(土)
モーセ、アロン、長老、イスラエルの人々。彼らは神の山に集まり、ひれ伏して主を礼拝します。この一事が起こるまでに、神様はどれほど心を砕き、頑ななモーセを説得なさったことでしょうか。主の日の礼拝に至るまでに、主なる神は多くの御業をもって私たちを導かれるのです。明日、この方の御前に、私たちはひれ伏します。

第5章1節〜第6章27節(ファラオとの交渉・モーセの使命・モーセとアロンの系図)

2003年7月6日(日)
私は主である。」神ご自身が繰返し宣言しておられます。イスラエルの叫びがその耳に達し、主が立ち上がって下さったのです。――しかしながら、ファラオはうそぶいて言います。「主とは一体何者なのか」と。下役たちがファラオに直談判するも失敗、最悪の事態だと言ってモーセに食ってかかります。これにはモーセも挫折、主に泣訴するのみです。今やファラオは正に<動かぬ現実>と化したのです。――私たちにもまた、神への叫び、<動かぬ現実>があると思います。事態の悪化があり、挫折があり、神への泣訴があります。しかし、その様な私たちに神のみ言葉が臨みます。「私はあなたたちを私の民とし、私はあなたたちの神となる。・・私は主である。」今日は日曜日!神があなたの神となって下さる日です。主の恵みのご支配は<あらゆる現実に勝る現実>です。「全地よ、主に向かって喜びの叫びあげよ。」アーメン。

第6章28節〜第11章10節(アロンの役割・アロンの杖・血の災い・蛙の災い・ぶよの災い・あぶの災い・疫病の災い・はれ物の災い・雹の災い・いなごの災い・暗闇の災い・最後の災い)

2003年7月7日(月)
心頑ななファラオに、十の禍が連続して襲いかかります。すると、その石の心にも少しずつ変化が生じてきます。@血の禍7:22「何が神のみ業だ。我々にも同様のことができる。」A蛙の禍8:4「モーセよ、主に祈願してくれ。」Bぶよの禍8:14「これは、我々人間の力を超えている!」Cあぶの禍8:24「よし、私はあなたたちを去らせる。」D疫病の禍Eはれ物の禍:泥試合の様相。F雹の禍9:27「今度ばかりは私が間違っていた。正しいのは主であり、悪いのは私と私の民である(罪の告白)。」Gいなごの禍H暗闇の禍10:28「引き下がれ。二度と私の前に姿を見せないよう気をつけよ。」そして遂にI最後の禍です。――主なる神様は時として禍を下されます。そうなさる理由は一様ではありません。けれども、私たちの頑なな心を打ち砕くために、主は時として禍をもお用いになるのです。主よ、現代の様々な禍のただ中にあって、私たちの心を打ち砕き、「あなたこそ主です」との告白へと導いてください。

第12章1節〜51節(主の過越・初子の死・エジプトの国を去る・過越祭の規定)

2003年7月8日(火)
主の怒りが過ぎ越していく夜。明けて、エジプトから脱出していくイスラエルの民。神の民イスラエルの原点、大いなる<救いの出来事>です。――私たちは、この出来事に、自らの救われた日のことを重ね合わせます。神が教会へと私を導き出して下さった日のこと、私たち自身の<出エジプト>です。――キリストの教会に生きる者は天国に至る旅の途上にあります。そして、私たちがこの希望ある旅路に参加したのは、一重に主イエス・キリストの十字架の救いによります。十字架上の主イエスこそは、神の怒りからあなたを護る「主の過越の犠牲(27節)」なのです

第13章1節〜16節(初子の奉献・除酵祭・初子について)

2003年7月9日(水)
神様は私たちに二つのことを命じておられます。一つは「私の救いの御業を子供たちに語り伝えよ」です。信仰者は誰でも、語り得る<神の救いの物語>を持っています。自分が救われた日のこと、教会にとっての歴史的な出来事、自分の人生に起ってきた神様の御業。その私の御業を彼らに語り伝えよ、です。二つは「子供たちをささげなさい」です。主の御手に託し、主の御用のためにささげるのです。――主よ、彼らにあなたの大いなる御手の業を示し、教会の明日を担う者たちとならせてください。

第13章17節〜22節(火の柱、雲の柱)

2003年7月10日(木)
ヨセフの遺言通り(創50:25)、イスラエルは主の御手によってエジプトから導き出されました。彼らはスコテを発ち、エジプトの東境エタムに到着、宿営します。その旅程は必ずしもハッキリしません。けれども、その旅路には確かな主の導きがありました。主は民を地中海沿いの<近道>には導かれず、<荒れ野の道>に迂回させられたのです。それは、民葦の海の心変りを予測すると共に、隊伍を整える時間を得るためです。――「回り道をした」と思える人生にも、神の配慮とご計画があります。そして、あなたの今日一日の歩みにも、主が先立っておられます。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。」私たちは、天国への旅路を今日も一歩前進するのです。

第14章1節〜18節(葦の海の奇跡)

2003年7月11日(金)
イスラエルを猛追するファラオは、今も姿形を変えて実在しています。<襲い掛かる闇の力>に、時として私たちはたじろいでしまいます。慌てふためき、不安に陥り、生きる勇気を失ってしまうのです。――今日一日、13節のみ言葉を何度でも聴きつつ、共に歩みましょう。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」私たちは、主の御業を待つ静けさの中に生きて良いのです。

第14章19節〜31節(葦の海の奇跡)

2003年7月12日(土)
見よ、神の救いの御業を! 19〜20節は<暗黒における神の戦い>を語っています。神ご自身が盾となり、ファラオの軍勢はイスラエルに近づくことができないのです。「光が闇夜を貫いた。」――私たちは明日、闇夜に輝く光を仰ぎます。私たちのために、暗黒の真っ只中で血を流したもう、主イエス・キリストを礼拝するのです。

第15章1節〜27節(海の歌・マラの苦い水)

2003年7月13日(日)
主の御手が海を裂き、乾いた地を渡りきったイスラエル! 彼らは今、追っ手を飲み尽くした海を顧み、主に向かって賛美を歌います。約束の地に向けて発つ新しい旅立ちです。――ところが、荒野路を三日進むも、水を得ることができません。漸くマラに到着、しかしそこの水は苦くて飲めたものでないのです。「民はモーセに向かって『何を飲んだら良いのか』と不平を言った。」主の栄光の直後に主の試練。主を賛美した唇が、三日にして不平を漏らす唇に。日曜から水曜へと向かう、私たち自身の姿を映し出しているようです。しかし主は、改めて真実なるみ言葉を語って下さいます。「私の声に聴き従って歩みなさい。・・私はあなたをいやす主である。」今日一日、主と共に歩む時、そこに、「十二の泉」と「七十本のなつめやし」を見出すことができるはずです。日常生活において主の御心に触れる、それこそ私たちの命の泉です。

第16章1節〜第17章7節(マナ・岩からほとばしる水)

2003年7月14日(月)
以前、聖書の舞台である荒れ野を旅したことがあります。一面の岩砂漠に、イスラエルの<荒れ野の40年>を思わずにおれませんでした。思い立って、友人と一緒に次の聖句を朗読しました。「イスラエルの人々は彼らに言った。『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている(16:3)。』」これは、正に生命の危機に直面した人間の言葉なのです。――現代日本も一面砂漠ではないでしょうか。生活の糧に関わる困窮があります。心と精神を元気にしてくれる<真の食物>に事欠いています。イスラエルの人々の不平は私たちから遠くないのです。――本日の中心聖句は次のみ言葉を記します。「主はモーセに言われた。『見よ、私はあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。』」この聖書通読運動を通して、砂漠に下る<天来のパン>に共に与って参りましょう。

第17章8節〜16節(アマレクとの戦い)

2003年7月15日(火)
「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」敵に負けぬよう頑張って祈りましょう、という話ではありません。続く12節には<祈りを支えてくれる仲間の存在>が記されています。ここに、教会の真の姿、支え合って祈る<祈りの共同体>の姿があります。日々の祈りにおいて、互いのことを覚え合い、共に祈りましょう。支え合って祈る<祈りの共同体>として!

第18章1節〜27節(エトロのモーセ訪問)

2003年7月16日(水)
韓国の教会は、戦後急速な成長を遂げました。その理由の一つは、牧師のみならず長老の果した役割が大きい、と言われます。各地域に責任を負う長老が立てられ、牧会の業に当たると聞きます。――日本の諸教会にも、主によく仕える牧師・長老(役員)が立てられ、キリストの体なる教会が益々整えられていくよう祈りましょう。また、私たち小松教会においても、牧師・長老・信徒が重荷を分かち合い、主の教会に一層喜んで仕えていきたいと思います。――イスラエルは、約束の地に至るその日まで、荒れ野の旅路を体制を整えつつ、歩んでいったのです。

第19章1節〜25節(シナイ山に着く)

2003年7月17日(木)
本章が示す真理は何でしょうか。それは、神様は聖なる方で、気安く近づくことのできないお方である、ということです。神様に近づくには準備が必要であり、誤って近づいた者は命を失うことにもなります。しかし、本章にはそれ以上に偉大な真理が語られているのです。それは、神様が「あなたたちは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる」と宣言されたことです。祭司とは神様に大胆に近づくことがゆるされた存在であり、聖なる国民とは神様の聖性を賦与された人々のことです。私たちは、キリストの聖なる十字架の血によって「祭司の王国、聖なる国民」となったのです。

第20章1節(十戒)

2003年7月18日(金)
「神はこれらすべての言葉を告げられた。」――主なる神様は、イスラエルをご自分の宝の民とすべく、聖なる契約を結ばれます。そしてそれに際し、イスラエルには十戒が授けられるのです。しかし、注意しましょう。十戒は、窮屈な戒律や単なる社会的規範ではありません。そうではなくて、十戒は<神のみ言葉>なのです。しかも、古代イスラエルのみならず、現代の私たちにも語りかける<神のみ言葉>なのです。――混沌を極める現代社会にあって、十戒は、"神様との正しい生き方""隣人との正しい生き方"を明示する<導きの光>です。ある人は十戒を<自由の道しるべ>と呼びました。正にアーメンです。これからご一緒に聴いていく<十のみ言葉>は、神様の御旨に適う生き方を示す<偉大な自由の憲章>なのです。

第20章2節(十戒)

2003年7月19日(土)
<偉大な自由の憲章>には前文があります。すべての戒めに先立つ、神の救いの事実です。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」――あなたを教会へと導き出して下さった神のみ言葉です。あらゆる縄目からあなたを解き放ち、御元へと導き出して下さる神のみ言葉です。私たちは明日、この方の御前にひれ伏し、この方を賛美し、この方にすべての栄光を帰するのです。

第20章3節(十戒)

2003年7月20日(日)
改革者のルターは次のように言いました。「今あなたが、あなたの心を繋ぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである」と。生甲斐が、仕事が、あの人の存在が、"私の神"となり得ます。しかしそれらはすべて、最終的にあなたを生かすものではありません。他の一切に勝って、まことの神のみを神とするところに、<真の自由>があります。そしてその自由に生きる時、生甲斐が、仕事が、人間関係が、真実の意味を持ってきます。――主イエスは、まことの神を神としない私たちのために、十字架にかかり、その尊き血潮を流されました。今日から始まる十戒は、常に、この十字架の主の下で聴くべき<生ける神のみ言葉>なのです。

第20章4節〜6節(十戒)

2003年7月21日(月)
第2のみ言葉は<偶然崇拝禁止>です。偶像崇拝は様々な形をとって現れます。しかしその根本は、神様への礼拝の仕方を、私たち人間が自分で考案してしまうことにあります。つまり、神様が求めておられる礼拝の仕方から離れて、自分なりの礼拝の仕方を作り出すこと、それが偶像崇拝なのです。それゆえ私たちは、自らの礼拝者としての姿を常に省みる必要があります。神様の御旨に適う姿であるかどうか、聖書のみ言葉によって点検し、礼拝の姿勢を整えていくことが不可欠です。み言葉に聴き従う礼拝を、霊と真とをもって形作っていきましょう。

第20章7節(十戒)

2003年7月22日(火)
第3のみ言葉は<神の名>に関する戒めです。神の名を正しく呼ぶこと、それが第3戒の求めていることです。それゆえ、雑談の最中に、安易に神の名を持ち出すことは控えなければなりません。あるいは、自己正当化や自己利益のために、神の名を利用してはならないのです。また、不幸や災害などに出会い、「神様は一体何をしておられるのか」と安易に呟くことも戒められています。――そうすると、段々私たちは、神様の御名を口にするのが恐くなってくるのかも知れません。けれども、神様が願っておられることは、御名を一切口にしないことでは勿論ありません。そうではなくて、御名を御名に相応しく呼び求めることです。それは、全身全霊をもって神を信頼し、その名を呼ぶことです。神様は詩篇50:15で言っておられます。「悩みの日に、私を呼べ」と。私たちは、全幅の信頼を寄せつつ、その御名を呼び求めるのです。

第20章8節〜11節(十戒)

2003年7月23日(水)
アメリカ合衆国長老教会の信仰問答は、第4のみ言葉を次のように説いています。(問)「なぜ一週間のうちの一日が休息の日として設定されたのですか。」(答)「第一に、労働者は、その雇用主によって利用されるべきではありません。私の人生は仕事以上のものですから、仕事は私の暴君になってはならないのです。第二に、神様は私に、一定の聖書の学びと祈りのために、時間を定めるよう要求しておられるのです。それは、一人でそうするだけでなく、他の人たちと共にそうするよう求めておられるのです(一部省略)。」――イスラエルは、かつてエジプトにあった時、ファラオの下で強制労働に喘いでいました。そのイスラエルを、主なる神はエジプトから脱出させたのです。今の時も、主なる神様は、聖書のみ言葉を通し、祈りにおいて、あなたに出会おうとしておられます。そのために、私たちは、自分の手の業を一旦休めるのです。

第20章12節(十戒)

2003年7月24日(木)
第5の戒めは<封建的道徳精神>を求めているのではありません。そうではなくて、「私が"あなた"という存在を世に誕生させるために用いた、あなたの父母を敬え」なのです。するとこのみ言葉は「私が"あなた"という一人の信仰者を誕生させるために用いた、あなたの信仰の父母を敬いなさい」ということにもなります。神によって立てられた、生みの親を敬い、育ての親を敬うこと、それが第5戒の求めていることなのです。それは「立派な父母だから敬え」なのではありません。神が、あなたを生まれさせるために用いた存在を受け入れ、敬意をもって重んじることなのです。そしてそれは、まことの神を神とする信仰によってのみ、可能なことなのです。

第20章13節(十戒)

2003年7月25日(金)
こんな言葉を聞いたことがあります。「昔、人の命は"天からの授かりもの"だった。しかし、今は"作るもの"になっている。」――日本人の<命に対する考え方>は、確かに変化してきています。命は、天からの授かりもの、コウノトリが運んできたもの、親から頂いたもの、人が作るもの・・。聖書はハッキリ語ります。「あなたの命は、神がお造りになったものである」と。「人の命はすべて、神の作品である」と。「殺してはならない」と宣言される神は、全人類の<命の主>であられるのです。

第20章13節(十戒)

2003年7月26日(土)
「なぜ人を殺してはならないのか。」この若者の質問に大人は絶句したと聞きます。聖書は語ります。「人の命は神のもの(神の所有)である」と。「だから、人が神様のものに勝手に手を出してはならないのだ」と。――主イエスは、神のものを神のものとしない私たちのために、十字架にかかり、その尊き血潮を流されました。明日私たちは、この十字架の主の御前にひれ伏し、私たち自身の命を神にお返しするのです。

第20章14節(十戒)

2003年7月27日(日)
『ハイデルベルク信仰問答』は第7のみ言葉を良く聴き取り、次の様に告白しています。
(問)神は、この戒めで、姦淫とそれに類すること以外は禁じておられないのですか。
(答)私たちの体と魂とは共に聖霊の宮です。ですから、神は、私たちがそれら二つを、清く聖なるものとして保つことを望んでおられます。それゆえ神は、あらゆるみだらな行い・態度・言葉・思い・欲望、またおよそ人をそれらに誘うおそれのある事柄を禁じておられるのです。――今日は主の日! 聖霊なる神が、あなたの体と魂に住み込んでくださる日です。私たちは<聖霊の宮>として今日一日を共に過しましょう。

第20章15節(十戒)

2003年7月28日(月)
第8のみ言葉は「物を盗むな」よりはむしろ「人を盗むな」です。従ってこのみ言葉は、現代の様々な問題や事件の上に鳴り響いています。――誘拐や拉致監禁は文字通り人をさらっていくことです。また、人身を拘束するハイジャック・収容所への連行・国を自由に行き来できないこと、これらすべての上にみ言葉は轟いています。しかしそれだけに留まりません。この戒めは根本的には<他者を勝手に支配しないこと>を求めているのです。それゆえ「盗むな」とのみ言葉は、正にあなたの日常生活に深く関わってきます。いつの間にか集団のボスになっていないか、一家の主婦が奴隷化していないか、子供を自分の所有物にしていないか、雇用主は労働者を支配していないか、・・・。第8のみ言葉は、他者を神のものとして畏れ敬う<真の自由>へと私たちを招いています。ファラオの支配下にあったイスラエルの人々を、神様は贖い取られ、これを御自分の民となさいました。イスラエルの一人一人は、ファラオのものでもモーセのものでもありません。主なる神のものです。そして、あなたも、あなたの家族も、あなたの隣人も、主なる神のものなのです。

第20章16節(十戒)

2003年7月29日(火)
第9のみ言葉は第一に<裁判における真実な証言>を求めています。しかし、更に日常的には<悪口・陰口・中傷を避けて、他者の名誉を守ること>が求められています。真偽を確かめずに人の噂をすることは、神の御心ではありません。また、人の噂話に軽率に乗ってしまうことも同様です。――主イエスは、人々が立てた偽証によって十字架にかけられていきました。しかし主は、人間の偽証が渦巻く中で、正に真実な方であり続けられました。そして主は、神のみ前に、私たち罪人を執り成し守る弁護人となってくださったのです。――み言葉は語っています。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」と(Tコリ8:11)。私たちは、キリストのものである隣人の名誉を重んじるのです。

第20章17節(十戒)

2003年7月30日(水)
第10戒は<貪欲>を戒めるみ言葉です。主イエスもまた<貪欲>についてお語りになりました(ルカ12:13以下)。しかしその譬えを読むと「この金持ちのどこが貪欲なのか」という疑問が沸いてきます。この人は額に汗して働き作物を得ました。そして、その作物を保管するために倉を新築しただけです。しかし主は「ここに貪欲がある」と指摘されるのです。それは、この人が、神様から恵みとして頂いた物を、あたかも自分で獲得した物であるかのように取り扱っているからです。即ち、貪欲とは<神様から与えられた物を自分の物として掠め取ること>なのです。その意味で、第10戒は「神が与えた隣人の物を欲するな」なのです。――主は最後にこう言われました。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりである。」神の前に豊かになる!それは、神に愛され、神の恵みに満ち足りることです。その時はじめて、私たちは貪欲から解放されるのです。

第20章18節〜21節(十戒)

2003年7月31日(木)
十戒を授けられた時、イスラエルの民は叫びました。「あなたが私たちに語って下さい。私たちは聞きます。神が私たちにお語りにならないようにして下さい。そうでないと、私たちは死んでしまいます。」神様が十戒を直接お語りになるなら、自分たちは死ぬより他ない、というのです。だから、神と自分たちとの間にモーセが立ち、モーセが十戒を取り次ぐよう懇願しているのです。――今も事情は全く同じです。神様が十戒を直接お語りになる時、これを聞いて生きていられる者は誰一人いません。しかし今や、十字架の主キリストが、神と私たちとの間に立ってくださいます。十戒は、この主の下(=主の赦しの下)でのみ聴き得る<神のみ言葉>です。主なる神様は、<十のみ言葉>をもって、<本当に自由な生き方>へと私たちを招いてやまないのです。

第20章22節〜第23章9節(契約の書)

2003年8月1日(金)
契約の書」と呼ばれるこれらの法は、今日の民法や刑法に当たります。主なる神様は、あなたの社会生活にも心を砕いておられるのです。――「契約の書」を貫いているのは、人を偏り見ることのない<神の正義>そして<神の真の憐れみ>です。私たちは、ついつい多数者に追随したり、弱い人を一方的にかばったりします。また、敵と思う人の不幸を見て喜ぶのです。そのことを思うと、23:1〜5に示される法が、どれほど真の正義と憐れみとを求めているかが分かります。神の正義と憐れみに従い、今日一日を生きましょう。

第23章10節〜33節(契約の書・違反に対する警告)

2003年8月2日(土)
神様は私たちを礼拝へと招いておられます。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。」「あなたは・・私のために祭りを行わねばならない。」「何も持たずに私の前に出てはならない。」礼拝への招きの言葉です。アーメン。

第24章1節〜18節(契約の締結)

2003年8月3日(日)
主なる神様は、ファラオの下で苦しむイスラエルを救い出し、約束の地への旅路につかせて下さいました。旅は困難を極めますが、神は天来のマナをもって民を養い導かれます。そして遂にシナイ山に到着。主は<本当に自由な生き方>へと民を招き、十戒と契約の書を授けられました。これに対してイスラエルは「私たちは、主が語られた言葉をすべて行います」と告白し、主に対する忠誠を誓います(3節)。この誓いに基づいて、モーセは雄牛の血を手に取り、民の上に振りかけるのです(シナイ契約)。――洗礼を授けられた時、私たちは、主のみ言葉に聴き従うことを誓いました。聖餐において、私たちは、主キリストの血を飲みます。教会は、@神の言葉が語られ、また聴かれ、A正しく聖礼典(洗礼と聖餐)が執行される時、真の新しいイスラエルです。他の一切がなくとも、この二つさえあれば、それは<真のキリスト教会>なのです。

第25章1節〜40節(幕屋建設の指示・箱・机・燭台)

2003年8月4日(月)
「いよいよややこしい箇所に入った」と思われるかもしれません。けれども、ここで言われていることは単純なことです。つまり、神様を礼拝する場所は、神様のご指示に従って建設されなければならない、ということです。素材・寸法・用途・場所に至るまで、神ご自身が指示を出されます。そして、この建設のすべては「私のもとに献納物を持って来させなさい」とあるように、民の献げ物によってなされるのです。――家を建てる際には誰でも「ここは何の部屋にしよう、玄関はどうしよう」と楽しい想像を巡らすものです。神の家を建てる際には「神様の願いは何か。主のご指示は何だろう」と祈りつつ考えるのです。小松教会は2002年度より「新礼拝堂が与えられるように」と祈り始めています。8〜9節は、その様な私たちに与えられるみ言葉です。「私のための聖なる所を彼らに造らせなさい。私は彼らの中に住むであろう。私が示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい。」

第26章1節〜37節(幕屋を覆う幕・幕屋の壁板と横木・至聖所の垂れ幕・天幕の入口の幕)

2003年8月5日(火)
「幕屋」とは神様を礼拝する場所ですが、その全体は幕で覆われています。中に入ると至聖所が奥にあり、垂れ幕によって向こうとこちらが隔てられています。究極の聖なる場所、神ご臨在の場所です。――主イエスが十字架上で息を引き取られた時、至聖所の垂れ幕に異変が起こったと福音書は伝えます。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた(マルコ15:37〜38)。」――私たちは、神の現臨に触れるよう、礼拝へと招かれています。あわれな罪人に過ぎない私たちが、至聖所の中に立つことがゆるされるのです。それは、神の御子がご自身の命を献げ、至聖所の垂れ幕を引き裂いて下さったゆえです。

第27章1節〜第28章43節(祭壇・幕屋を囲む庭・常夜灯・祭服・エフォド・胸当て・上着・額当て・アロンとその子らの衣服)

2003年8月6日(水)
明治のキリスト者たちは紋付はかまで礼拝した、と言われます。神の御前に出るに際し、最上のものを身にまとった、ということです。――本日の聖書個所において、主なる神様は<礼拝時の身なり>について語っておられます。祭服、エフォド、胸当て、上着、額当て、衣服・・。今日、これ程細かくは要求されていませんけれども、<主の御前に出るに最も相応しい服装>が求められています。デートの時以上に、会社の面接の時以上に、主にお会いすることを意識して、身なりを整えたいと思います。そして何よりも、キリストの衣を身にまとうことによってのみ、神の御前に立ち得ることを思い起こしましょう。28:43の主のみ言葉を噛みしめ、深く味わいながら。

第29章1節〜46節(祭司聖別の儀式・日ごとの捧げ物)

2003年8月7日(木)
祭司の聖別任職式です(今日で言えば教師の按手式)。アロンとその子らは、祭司の装束で全身をまとい、「聖別の油」を注ぎかけられ、主の御業のために聖別されます。雄牛が全焼の生贄として献げられます。一頭の雄羊が屠られて、その血が彼らの全身に振りかけられます。なぜ、こうまでしなければならないのでしょうか。それは、罪ある人間が神の御業に就かせられる<重大な手続き>だからです。――現在主の訓練を受けている神学生のために祈りたいと思います。教団の教師検定試験がそれに相応しく行われ、主の御旨に適った教師が立てられるよう祈りましょう。また、牧師・教務教師・隠退教師を覚えて祈っていただきたいと思います。正規の手続きを経て奉仕者が立てられ、神の民の集まる所、そこに主は現臨して下さるのです(→42〜46節)。

第30章1節〜第33章11節(香をたく祭壇・命の代償・手足を清める・聖別の油・香料・技術者の任命)

2003年8月8日(金)
31章の<技術者の任命>は注目です。幕屋とは礼拝所ですが、それに関わる一切は<神に指定された技術者>によって建設・作成されます。今日の教会堂建築も同様です。

第31章12節〜18節(安息日を厳守せよ)

2003年8月9日(土)
再び「安息日を守れ」とのみ言葉です。神様が安息日をどれ程重んじておられるか、そのことを思わずにおれません。――アメリカ合衆国長老教会は次のように告白しています。(問)あなたは「安息日を守れ」との戒めから何を学びますか。(答)礼拝が私の人生の中心になるために、神は特別な日を聖別するように要求しておられるということです。感謝と賛美をもって、神のみ言を私の心の中に、唇に、また私の人生においてそれを実行するために聴いて受け入れて、神を誉めたたえることは正しいことです。

第32章1節〜35節(金の子牛)

2003年8月10日(日)
「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください(1節)。」イスラエルはその旅の足を前進させたいと願っています。後退しようなどとは誰も思っていません。前進!前進!前進!が合言葉です。しかし正にその所で、彼らは罪を犯しました。「我々に先立って進む神々」即ち<金の子牛>を造り、これに従って行くというのです(注:子牛は"勢力"の象徴!)。・・一方、シナイ山上では、主がモーセに<十戒の石板二枚>を授けているところでした。――今日から始まる一週間。私たちは、教会の歩みが、各々の人生の歩みが、前進することを願っています。しかし、そこで知っていたいと思います。神の示しを待ち切れず、勝手に<金の子牛>を鋳造してしまったイスラエルのことを。そしてモーセの執り成しによってのみ、彼らが神の怒りから救われたことを。――今や主イエスただお一人が、私たちの真の執り成し手です。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください(32節)。」このモーセの決死の執り成し は、十字架上の主イエス・キリストにおいて現実となったのです。

第33章1節〜23節(民の嘆き・臨在の幕屋・民と共に行かれる主・主の栄光)

2003年8月11日(月)
神様はいつも私たちのそばにいて下さる訳ではありません。私たちの罪の故に、神様が私たちから離れて行かれることがあり得るのです。「しかし、私はあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである(3節)。」これを聞いて、イスラエルは嘆き悲しみました。またモーセは、遠く離れた所に「臨在の幕屋」を特設し、そこで主に謁見します。「どうか、私たちと共に行って下さい」と主に懇願するのです。――さて、主はモーセの願いを入れて、一つの不思議を行われます。岩の裂け目に入ったモーセの目の前を、主が通り過ぎて行かれます。しかしそのご威光は直接見ることができません。岩の裂け目を主の御手が覆い塞いでいるからです。――私たち人間は、神様のご威光を直接見ることはできません。もしそんなことをしたら、私たちは滅びるより他ありません。しかし、主なる神様は、救いの御手の覆いの下に、そのご威光を示されました。主イエス・キリストの十字架の下に、です。私たち罪なる人間も、ここでのみ、「神ともにいます」と告白できるのです。

第34章1節〜35節(戒めの再授与・モーセの顔の光)

2003年8月12日(火)
最初に神から授けられた<十戒の石板>は、破られました。イスラエルは、金の子牛を鋳造して、神との契約を一方的に破棄しました。その大罪を犯したイスラエルに、もう一度、神のみ言葉に生きるチャンスが与えられるのです。――この律法の再授与には<福音の音色>があります。大きな罪を犯した者に、もう一度、神と共に生きる道が与えられるのです。主は言われます。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」

第35章1節〜36章38節(安息日の厳守・幕屋建設の準備・幕屋を覆う幕・幕屋の壁板と横木・至聖所の垂れ幕・天幕の入口の幕)

2003年8月13日(水)
一見25章以下の繰り返しのようです。しかし、ここに秘められている恵みを見逃さないようにしましょう。即ち、35章以下は、主に対する大いなる裏切り行為、民の嘆きとモーセの執り成し、そして主の赦しがあって後のこと、なのです。それゆえ、幕屋建設の準備が主の指示どおり(25章以下の繰り返しのごとく)行われていることに、大きな意味があります。つまり、イスラエルは今や悔い改めて、主のみ言葉に従って生き始めているのです。しかも、彼らは「心動かされ、進んで心からする(35:21)」のです。私たちもまた、今日一日、喜んで主に従う<神の僕>として生きましょう。

第37章1節〜38章31節(掟の箱・贖いの座・机・燭台・香をたく祭壇・祭壇・幕屋を囲む庭・幕屋の建設材料の記録)

2003年8月14日(木)
幕屋の材料は「進んで心からささげようとする(35:5)」民の献納物によりました。また製作・建築については「主から心に知恵を授けられた、心に知恵のある全ての者、即ち、心動かされた全ての者をこの仕事に従事させるために呼び集め(36:2)」ました。そして、その仕事の多くを委ねられたのが「ベツァルエル」(37:1)です。何と光栄な役割を与えられたことでしょう。今日、あなたにも、主は役割を与えておられます。

第39章1節〜43節(アロンの祭服・エフォド・胸当て・上着・その他の衣服・幕屋建設の準備完了)

2003年8月15日(金)
「主がモーセに命じられたとおりに!」この一言が、本章だけで十回も繰り返されています。――あの聖なるクリスマスの夜、ベツレヘムの羊飼いたちは、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てました。そしてその光景を見て、主が言われたとおりであることに驚き、人々にその事実を伝えたのです。また、主イエスの母マリアは次のように祈りました。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」――私たちも、同じ祈りと驚きに生きたいと思います。主よ、どうぞ今日一日、あなたの御心、あなたのお言葉どおり、この身になりますように。

第40章1節〜38節(幕屋建設の命令・主の栄光)

2003年8月16日(土)
出エジプト記は<主の栄光>をもって閉じられます。ファラオの下での苦しみ。主の大いなる救い。荒れ野の旅路に十のみ言葉の授与。しかし主に対する大罪。執り成しの祈りと悔い改め。律法の再授与、幕屋の完成!明日、私たちも主の栄光を仰ぎます。


(C)日本聖書協会