創世記


第1章1節〜第2章4節(天地の創造)

2003年5月4日(日)
「初めに、神は天地を創造された。」聖書は、その第一声に<神の大いなる初め>を語り出します。「初めに、神は天地を創造された。」神様が創り出してくださった<あなたの大いなる初め>があります。あなたの命の初め、あなたの信仰の初め、すべて善き事の初め、です。今日という一日を、神が創めた一日と信じ、共に歩みましょう。そして、この通読運動をも<神の大いなる初め>と受け止め、「日々の生活に、聖書のみ言葉を!」と祈り続けていきましょう。

2003年5月5日(月)
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神様は、混沌と暗闇のただ中に<光>を創造される方です。今日、あなたは、慌しさの中を生活するのかも知れません。今日、あなたは、肉体の弱さに心を騒がせて生きるのかも知れません。今日、あなたは、人間関係の中で、混沌と暗闇を味わうのかも知れません。その時に、聖書のみ言葉を思い出したいと思います。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった(創世記1:3)。光(=イエス・キリスト)は暗闇の中で輝いている。そして、暗闇はこれに勝たなかった(ヨハネ1:5)。

2003年5月6日(火)
夕べがあり、朝があった。第一の日である。夕べがあり、朝があった。第二の日である。聖書は、一定のリズムをもって時を刻んでいます。一日のリズム、一週間のリズム、一月のリズム・・・。私たちは、今日という一日を漫然と過ごそうとしていないでしょうか。聖書が告げる<時のリズム>は、変わりなく臨む<神の恵みのリズム>です。主なる神様は、今日という一日を、あなたに与えてくださいました。確かで、変わりのない、恵みのリズムをもって。

2003年5月7日(水)
信仰の眼差しは、世界を新しく見ることを可能にします。人間の罪がどんなに世を暗くしようとも、世界はなお神の作品です。光(3節)、大空(6節)、海と大地(9節) 、植物と果樹(11節)、太陽と月(14節)、水中の生物・鳥(20節)、牛、蛇、犬、猫・・・そして人間(24節以下)。神の天地創造のみ業は、人間を造ることによって完成しました。人間の罪があるにも関わらず、なお<世界は神の作品>!十字架の主キリストのみ姿を仰ぎ、今日一日、神の作品の中に生きましょう。

2003年5月8日(木)
「神は御自分にかたどって人を創造された」とは、私たち人間は<神様の善さ・知恵・そして愛>を映し出す存在として造られた、という意味です。神様は、あなたの今日一日に期待を寄せておられます。「私の善さ、私の知恵、私の愛を映し出すように生きなさい」と。私たちは言うかも知れません。「神様、そんな生き方はできません」と。そうです。キリストの恵みを受けることなしに、私たちは生き得ません。けれども、主キリストにあって、私たちは神の善さを映し出します。「キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。」

2003年5月9日(金)
何度でも聴きたいものです。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」あなたは、くだらない存在ではありません。あなたは神に造られた命なのです。神はあなたを御覧になって言われました。「君は私の目に極めて良い」と。今日一日出会うであろう、あの方この方もそうなのです。神の眼差しの下で、今日という日を生きましょう。

2003年5月10日(土)
「天地万物は完成された。」この創世記のみ言葉は、主キリストの再臨によって完成・成就します。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。」(ヨハネ黙示録21:1)私たちは、主の再臨を待ち望みつつ、明日の礼拝に備えます。「アーメン、主イエスよ、来てください。」と。

第2章4節〜25節(天地の創造)

2003年5月11日(日)
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」これは昔話ではありません。主日礼拝の話しです。礼拝において私たちは、命の息である聖霊を受けます。この方は、永遠にあなたと共にいてくださる神です。私たちは今朝聖霊を受けた。こうして私たちは永遠に生きる者となった。アーメン。

2003年5月12日(月)
15節と18節は、神様は何のために人間をお造りになったのかを語っています。すなわち、神様は、神と共に生きる者として人間をお造りになった、神様は、自然と共に生きる者として人間をお造りになった、神様は、隣人と共に生きる者として人間をお造りになった、ということです。私たちは、今日も、神との交わりに、人との交わりに、この地上にあって生きるようにと招かれています。――主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

2003年5月13日(火)
アダムとエヴァは今、真直ぐ向き合って、心と心が響き合っています。アダムは、神様が連れて来て下さったエヴァを喜び、歌を歌っているのです。主イエスは、第二のアダムとして、あなたを受け入れ、あなたを喜んでおられます。今日一日、主イエスの心とわたしの心が互いに響き合いますように。今日一日、隣人の心とわたしの心の間に、平和の調べが響き合いますように。

第3章1節〜24節(蛇の誘惑)

2003年5月14日(水)
神に造られた極めて素晴らしい存在、それが人間だと聖書は語ります。でも、どうして人間は、こんなに醜く、混乱しているのでしょうか。その秘密は<人間の自由>にあります。神から頂いた素晴らしい賜物(知恵や力)を、神が願っている仕方で用いるかどうか、そこに<人間の自由>の問題があります。けれども、私たちはいつも、それを誤って用いてしまう。そこに、蛇の誘惑があり、私たちの過ちがあります。この失楽園物語の行く末は、主イエス・キリストの十字架です。主キリストの十字架において、もう一度、楽園への入口が開かれたのです。

2003年5月15日(木)
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」神のみ心に背き、木の間に隠れるアダムを、主なる神は呼ばれるのです。「あなたは、どこにいるのか。」しかし、アダムは出て行くことができません。神を恐れているからです。しかし、今や私たちには、十字架の主キリストが呼びかけておられます。「あなたは、どこにいるのか。」と。(マルコ5:30)

第4章1節〜26節(カインとアベル)

2003年5月16日(金)
弟を殺してしまったカイン。その結果、彼は神の御前から去っていきます。さすらいの独り旅、生きる目的を失った孤独な旅路です。この旅は一体いつまで続くのでしょうか。この物語の結論である26節は語ります。「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」と。主なる神は、あなたが今日、主の御名を呼び始めることを待っておられます。

第5章1節〜32節(アダムの系図)

2003年5月17日(土)
この系図に何の意味があるのだろう。それが私たちの第一印象かもしれません。しかし、1〜2節をお読みください。「わたしはあなたがたを素晴らしい存在として造った」、あの最初の神のみ言葉は今もなお鳴り響いている。それが、この系図の意味です。神の祝福は、アダムを生かし、セトを生かし、エノシュを生かし・・・。人間の堕落があったにもかかわらず、神様の祝福は途絶えない。なぜか。それはノア(神の慰め)がいるからだと創世記は語ります。しかし、今や私たちは<最後のノア>を知らされています。私たちのために十字架にかかって死んでくださった主イエス・キリストです。明日の主の日、この方が私たちを礼拝へと招いてくださるのです。

第6章1節〜22節(洪水)

2003年5月18日(日)
今週は<ノアの洪水物語>を読みます。この物語のメッセージは何でしょう。それは、神の裁きの只中で、神の好意を得た人がいる、ということです。神様は、ご自分がお造りになった人間を、地上からぬぐい去ろうとご決断なさいます。それは、神ご自身のみ心を刺し貫く決断です。しかし、その裁きの決断の只中にあって「主の好意を得た」人物がいました。それがノアです。そしてこのノアが、<救いの箱舟>を建設するのです。今や、教会へと招かれた私たちが、<現代のノア>です。主キリストの十字架によって、神の裁きを免れ、神の好意に与ったのです。今週一週間、十字架から来る<神の好意>を身に受けつつ、教会を形作る一員として歩んでいきたいと思います。

第7章1節〜24節(洪水)

2003年5月19日(月)
神によって選ばれた人間と動物が、<救いの箱舟>に招き入れられます。今日(こんにち)、この箱舟は教会です。あなたも、教会に招かれている一人です。あなたの身の回りにいる動物たちも神の救いに招かれています(ロマ8:21)。そして、今日あなたが接するあの方この方にも、神の救いの光が届けられねばなりません。主イエスは言われました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

第8章1節〜22節(洪水)

2003年5月20日(火)ノアの箱舟
主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」(21節)このみ言葉が<ノアの洪水物語>の結論です。神様はご自分の心に向かって堅く誓われました。「もう二度と、大地に洪水は起こさない」と。この神様の誓いの言葉は、主イエス・キリストの十字架に宣言されています。あなたは、神に呪われていません。神に祝福されているのです。

第9章1節〜28節(祝福と契約・ノアと息子たち)

2003年5月21日(水)
大洪水は過ぎ去り、天には雲が現われ、七色の虹がかかります。この虹を見て、神ご自身が思い出してくださるのです。「私は、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」と誓われた契約を。神様が、虹をご覧になって、平和の約束を思い出してくださる。その時こそ、私たちに平和が訪れます(虹の契約)。今日一日の歩みの上に<神の虹>が現われることを祈りたいと思います。私たちに平和をもたらす<神の虹>! それは、十字架にかかり、復活され、今や天におられる主イエス・キリストです。

第10章1節〜32節(ノアの子孫)

2003年5月22日(木)
「カタカナばかりだ」とウンザリしないでください。大洪水の後、神様は、人々が生きることを祝福しておられるのです。しかも、「その言語、氏族、民族に従って住むように(5節)」です。私たちは、日本語を話し、日本人として生活しており、小松・根上・大聖寺といった地域社会にあって暮らしています。聖書によれば、それは偶然ではないのです。あなたの生活と人生に深く関わっておられる神がおられます。私たちの国と社会に、誇りと責任を持ちたいと思います。なぜなら、主なる神が「あなたはこの国、この地域に住みなさい」と言っておられるのですから。

第11章1節〜9節(バベルの塔)

2003年5月23日(金)
天まで届く塔を建て上げよう!――それは、人間の力だけで、社会を築き、家庭を築き、自分の人生を作ろうとすることです。ある人は「この巨大な塔は逆三角形に見える」と言いました。バベルの塔は、三角形が逆立ちした様(さま)に見える、というのです。いつ倒れるか分からない<不安定で危険な建物>に見える、ということです。私たちは、今日一日、<バベルの塔>を懸命に築き上げるのでしょうか。主の御心を尋ねつつ、主と共に、今日一日の歩みを造りたいと思います。

第11章10節〜32節(セムの系図・テラの系図)

2003年5月24日(土)
5章と同じく<命の系図>です。<神の祝福の系図>です。しかし、5章とは違って、ここには注目すべき点があります。それは、<故郷を旅立つ一家族の姿>です(31節)。「テラは、・・を連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。」この旅立ちは、神が約束してくださったカナンの地への旅立ちです。明日、私たちも御国へと旅立ち、主なる神を礼拝するのです。

第12章1節〜20節(アブラムの召命と移住・エジプト滞在)

2003年5月25日(日)
神の祝福とは「あなたを絶対に見捨てない」ということです(創28:15)。アブラムに与えられた神の祝福の約束は、今や教会が聴くべきみ言葉です。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(2節)「わたしはあなたを絶対に見捨てない。」何と心強いことでしょうか!神の祝福を身に受けて、今週一週間、「祝福の源」として歩みましょう。神の祝福を隣人のもとへと届ける者たちとして。

第13章1節〜第14章24節(ロトとの別れ・王たちの戦い・ロトの救出・メルキゼデクの祝福)

2003年5月26日(月)
「自分の力で財産を獲得した」と思っている者(ロト)と、「神の祝福によって財産が与えられた」と信じている者(アブラム)の話です。<自分の権利を主張する者>と<自分の権利を譲る者>、<この世の知恵のみに長けた者>と<神の国の現実に生きる者>の話。ロトは滅ぶべきであり、アブラムは神の祝福を受けています。しかし、聖書は、アブラムによるロトの救出を語ります。アブラムはロトに対して<互いの平和>を申し出るのです。今や、主キリストこそ、あなたのアブラムです。今日一日、主に救出された者たちとして、私たちもまた、平和を申し出る心に生きたいと思います。

第15章1節〜21節(神の約束)

2003年5月27日(火)
年老いたアブラムには子供がありません。神の祝福を受け継ぐべき後継者が見当たらないのです。そのアブラムに神の約束が臨みました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。望みなきところで、神の約束を受け、神を信じるのが信仰です。今日一日、望みなき所に輝く<神の約束>を仰ぎ見て、共に歩みましょう。

第16章1節〜16節(ハガルの逃亡と出産)

2003年5月28日(水)
ハガルは自分に語りかける神の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言いました。行けども行けども ただ砂原 道なきところを ひとり辿る (讃美歌244番)ひとり彷徨うハガルに、主は親しく語りかけてくださいました。主の御使いは言っています。「主があなたの悩みをお聞きになられたから」と。今日一日、主に向かって「エル・ロイ、エル・ロイ」と呼びかけつつ、この世の旅路を共にいたしましょう。

第17章1節〜14節(契約と割礼)

2003年5月29日(木)
「全き者となれ」とは「完璧な人間となれ」という意味ではありません。あなたがよりどころとするすべてが否定され、神のみに望みを置くように導かれる、ということです。神のみに望みを置く、それこそが信仰ですが、初めからそこに至らないのが私たちです。しかし、その様な私たちを、神様は愛する子供を鍛えるように鍛えられるのです。試練を通して、困難な現実にぶつかることを通して。「全き者となれ」とは「この私を全身全霊で信頼せよ」とのみ言葉なのです。

第17章15節〜第18章15節(イサクの誕生の予告)

2003年5月30日(金)
「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って・・」(17:17)アブラハムは神を礼拝しつつ、<神の全能>を笑いました。年老いたこの身に<喜びの実>が与えられる??神様、冗談も休み休みにして下さい、と。他人事でないと思います。神を礼拝しつつ、神を笑ってはいないか。いくら神様といえども、この現実を変えることはできない。神様の約束は約束として、こちらでは別の準備をさせていただきます。「全き者となれ」との神のみ言葉が、今日も鳴り響いています。

第18章16節〜33節(ソドムのための執り成し)

2003年5月31日(土)
何という粘り強い<執り成しの祈り>! しかし、今や、大地には「正しい者はいない、一人もいない」のです(ロマ3:10)。明日、あなたが礼拝(神の御前)に出席できるのは、ただ主イエスの執り成しの祈りによってです。主イエスが、あなたを執り成してくださいます。十字架の主イエス・キリストのみが、神の義人、永遠の執り成し手です。

第19章1節〜38節(ソドムの滅亡・ロトの娘たち)

2003年6月1日(日)
滅びの町を後にし、救いの山へと逃れる物語です。神の裁きを絵空事とした者がいます。一体それはどういうものか、振り返り見極めようとした者がいます。救いの山へと至る道は、細く険しいのです。しかし、ロトについては、アブラハムが執り成しの祈りを祈り続けています。御使いが手を取って導き、彼はそれに従うのです。「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」あなたが、主の執り成しによって<教会(救いの山)>へと導かれた話です。

第20章1節〜18節(ゲラル滞在)

2003年6月2日(月)
アブラハムは、自分の身を守るためにサラを妹と偽りました。それは不信仰から来る偽りであり、それゆえ問題が発生してきます。私たちはしばしば、不信仰のゆえに愚かな知恵を頼りにして、かえって危険を招きます。しかし、契約の神は、約束実現のために、アブラハムを取り巻く王や民の中で、彼らを守り通されるのです。あなたが自分で自分の身を守る以上に、神が守られます。あなたは、今日、神の全能の愛に信頼して、神の子として生きて良いです。

第21章1節〜34節(イサクの誕生・ハガルとイシュマエル・アビメレクとの契約)

2003年6月3日(火)
老夫婦に<約束の男子>が与えられました。その子の名は<イサク(笑い)>です。サラが神を賛美して歌っています。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑いを共にしてくれるでしょう」と(6節)。神を礼拝しつつも、神の全能を笑い飛ばした二人に、<笑いの子イサク>が与えられました。私たちの不信仰に対して、神様が大いなる恵みをもって臨まれる。その時、私たちは打ち砕かれ、悔い改めへと導かれ、神を賛美する笑顔へと導かれます。――教会に受洗者が与えられるよう祈りましょう。今日という日に、神から来る恵みの滴りを味わい、<神にある笑い>に共に与れるよう祈りましょう。

第22章1節〜24節(アブラハム、イサクをささげる・ナホルの子孫)

2003年6月4日(水)
<イサク奉献物語>は語っています。「神様は、神と共に生きる者に、犠牲を伴う捧げものを要求なさることがある」と。――「なぜ、神様はこの様な要求をなさるのか。」その理由は私たち人間の側には知らされていません。けれども、アブラハムは、主の求めに従って歩み、指定された場所まで黙々と歩き通しました。そして、そこに、その所にのみ、神の備えが待っていたのです。「主の山に備えあり!」まだ見ぬ神の備えを信じて、今日一日を歩んでいきましょう。ゴルゴタの丘に捧げられし、神の独り子を仰ぎながら。

第23章1節〜20節(サラの死と埋葬)

2003年6月5日(木)
「アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」(2節b)信仰者として生きることは、涙を流さぬ強い人になることではありません。神様は、私たちの人間的な感情をも養い育んでくださるのです。他者に対して無関心となりやすい私たちも、神に赦され愛されて、健やかな心を回復しつつあります。泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑う<柔らかな心>です。そして、あなたの涙がことごとく拭い取られる終わりの日が来ます(主の再臨)。今日一日、神の愛に育まれ、<柔らかな心>に生きたいと思います。

第24章1節〜67節(イサクとリベカの結婚)イサクとリベカ

2003年6月6日(金)
「彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、祈った。」(11節)旅の足を止め、<立ち止まって祈る姿>がここにあります。聖書通読運動はこの<立ち止まって祈る>ことへの招きです。今日(こんにち)、"忙しい"という名の神様が、日本中をウロウロしています。私たちもまた、この偽りの神に翻弄され、心をさらわれてしまうかもしれません。その様な中にあって、まことの神様に救って頂くべく<立ち止まって祈る>のです。立ち止まって祈り、そして、生活の足を進めて行く。そこに見えてくるのは神のみ業とみ心です。あなたの人生に関わっておられる主なる神の導きです。そして、あなたの旅(人生)の目的は、最後、神によってことごとくかなえられるのです。「主は、・・わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。」(48節)アーメン。

第25章1節〜34節(ケトラによるアブラハムの子孫・アブラハムの死と埋葬・イシュマエルの子孫・エサウとヤコブの誕生・長子の特権)

2003年6月7日(土)
27節以下は何でもない<日常生活の一場面>です。けれども、ここで話題になっているのは<神の祝福>です。お爺ちゃん(アブラハム)から受け継がれてきた神の祝福(11節)、父親(イサク)から受け継ぐはずの神の祝福です。その神の祝福を受け取る特権をエサウは軽んじました(長子の特権軽視)。今や、聖書が語る「長子の権利」とは、礼拝に与る特権のことです。先達から受け継がれてきた「長子の権利」を重んじ、明日に備えたいと思います。

第26章1節〜35節(イサクのゲラル滞在・井戸をめぐる争い・イサクとアビメレクの契約・エサウの妻)

2003年6月8日(日)
「私はあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓った私の誓いを成就する(3節)。」主なる神様は、アブラハムに誓った誓いの故に、イサクを祝福されます。イサクは、自分自身の満足のためではなく、神の祝福が子孫に受け継がれ、世の光として存在する使命を負っています。――今日はペンテコステ! 教会が世に誕生したのは、<神の祝福の源>としての使命に生きるためなのです。

第27章1節〜4節(リベカの計略)

2003年6月9日(月)
イサクは年老いました。今や彼は、自分の死が近いことを感じています。そのイサクが、最後、一体何を望んだか。「死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい。」愛する息子に神から頂いた祝福を与えたい、というのです。私たちは、最後、愛する者たちに何を与えたいと願うのでしょうか。土地でしょうか、建物でしょうか、預金通帳でしょうか。それらは地上を生きるに欠くことのできないものばかりです。しかし、イサクの言う「わたし自身の祝福」とは、神と共に生きる永遠の命そのものです。永遠の命に関わる重大事!それが「わたし自身の祝福」なのです。「主よ、どうか彼に、彼女に、わたし自身が受けた祝福をお与えください。」アーメン。

第27章5節〜45節(リベカの計略・祝福をだまし取るヤコブ・悔しがるエサウ・逃亡の勧め)

2003年6月10日(火)
遺産相続は<骨肉の争い>になる、とよく言われます。けれども、ここでの<骨肉の争い>は<神の祝福争奪合戦>です。1億円を相続できる喜びをはるかに越えて、神の祝福を相続することは大いなること! そのことが分からない者にとっては、イサク家の争いの真剣さは分かりません。――私たちは、自分が受けた神の祝福をどれ程のものと考えているでしょうか。神を礼拝することがゆるされている幸いを、小さな事と思ってはいないでしょうか。今日一日、神と共に生活できる喜びに生きたいと思います。すべて必要なもの(地上の財産)は、神によって備え与えられるのですから。

第27章46節〜第28節22節(ヤコブの出発・エサウの別の妻・ヤコブの夢)

2003年6月11日(水)
ヤコブは今、天涯孤独の旅路にあります。住み慣れた家を後にし、逃げ出したのです。後ろには兄の憎しみ。前には保証のない将来。右も左も見知らぬ人ばかり。正に八方塞の状態にあります。しかし、その様な彼に、唯一<望みの光>が差し来る場所がありました。それが"天"です。天から地上に階段がかかり、主が傍らに立って言われます。「見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、・・あなたを決して見捨てない。」と。―― 今日、あなたに語りかけて下さる主なる神のみ言葉です。これこそ、イサク家全員が求めた<神の永遠の祝福>です。

第29章1節〜第30節24節(ラバンの家に着く・ヤコブの結婚・ヤコブの子供)

2003年6月12日(木)
神様は、あなたの身近な問題に深く関わっておられます。ヤコブ家の問題、それは夫婦と子供の問題でした。そこには、人間の偏愛とそれ故の苦しみ、妬みと執念があります。その様な中にあって、レアは言いました。「主は私の苦しみを顧みて下さった」と。主が苦しむレアを顧みて下さったのです。しかし、聖書はラケルについてもこう語っています。「しかし、神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れ・・。」――神様は人を偏り見ることのないお方なのです。神様はあなたのことを御心に留めておられます。人を偏り見ることのない御愛をもって。あなたの身近な問題のただ中で。

第30章25節〜第31節54節(ラバンとの駆け引き・ヤコブの工夫・ヤコブの脱走・ラバンの追跡・ヤコブとラバンの契約)

2003年6月13日(金)
ヤコブが味わった苦しみは、人から不当な扱いを受ける苦しみです。ヤコブにとってラバンは仕事上の上司です。ラバンは一体何度、不当に契約を変更したことでしょう。しかし主は言われます。「ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべて私には分かっている」と。――36節以下は、苦しみ続けた20年の全てを物語る言葉であり、神の守りの凄さを告げています。「もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方が私の味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たずに私を追い出したことでしょう。神は、私の労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです。」アーメン。

第32章1節〜22節(ヤコブとラバンの契約・エサウとの再会の準備)

2003年6月14日(土)
ヤコブが生家を追われたのは、兄エサウの憎しみと殺意の故でした。あれからもう20年以上の時が流れました。今ヤコブは、神の言葉によりすがり、兄との再会に臨もうとしているのです。しかし彼は、兄との再会を恐れています。二人の間に和解が訪れることなど期待できないからです。――神との和解、人との和解、自分自身との和解を祈りつつ、明日の礼拝に備えましょう。「あなたはかつてこう言われました。『私は必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」アーメン。

第32章23節〜33節(ベヌエルでの格闘)

2003年6月15日(日)
今自分が格闘している相手は誰なのか。まだ見ぬ兄の幻か、渡し場に住む悪魔か、それとも神ご自身なのか。ヤコブの夜を徹した格闘は、相手の正体が分からない所で闘い続ける闘いでした。そしてこれが<祈りの闘い>です。私たちも時として、今自分は何を相手にしているのか、それがハッキリしない闘いに置かれることがあります。そしてそこで、ヤコブを支えるのは「いいえ、祝福して下さるまでは離しません」との祈りです。既に神から祝福を受けている者が、神の祝福を求めて闘うのです。それが私たちの祈りであり、神様は、この祈りに応えて、ご自身の御顔を見せて下さるのです。

第33章1節〜20節(エサウとの再会)

2003年6月16日(月)
「兄上のお顔は、私には神の御顔のように見えます(10節)。」兄の顔が神々しい、というのではありません。兄との間に和解が訪れたのです。今兄の顔を見詰めると、そこには神の和解の御光が輝いている、と言っているのです。二人は20年間敵対関係にありました。ヤコブは再会に際し、兄の顔をまともに見ることもできません。その様な二人の間に<和解の光>が訪れたのです。私たち人間の和解は、恵みの神の御顔を仰ぐことからのみ始まります(32:31)。神様は、主イエスにおいて、恵みの神としてその御顔を見せて下さいました。私たちに和解を与える恵みの神として。その御神が、あなたに期待しておられます。私がついている、今日和解の使者として行きなさい、と。

第34章1節〜第35章15節(シケムでの出来事・再びベテルへ)

2003年6月17日(火)
「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい(1節)。」ベテル!それは、ヤコブが兄を避けて逃げて行った時、主が出会って下さった場所です(28章)。大いなる試練のただ中にあった時、救いの神が出会って下さった場所です。ヤコブは今、20年の時を経てベテルに上り、そこに祭壇を築こうとしています。主なる神の御救いが、子々孫々にまで受け継がれて行くために、です。私たちにとってのベテルは<キリストの教会>です。私たちは主の教会で救われました。それゆえ、礼拝堂建築のために祈りを合わせたいと思います。「さあ、これからベテルに上ろう。私はその地に、苦難の時私に答え、旅の間私と共にいてくださった神のために祭壇を造る(3節)。」アーメン。

第35章16節〜第36章43節(ラケルの死・エサウの子孫・セイルの子孫・エドムの王国)

2003年6月18日(水)
29節はさり気ない一節ですが、ここには大きな事が起っています。父親の葬儀を兄弟が協力してあげています。父イサクの死を通して、分裂していた二人の間に和解が生じています。――私たち自身の死の出来事が、神様によって大きく用いられ、人々に益をもたらすよう祈りたいと思います。そして、私たちの生涯全体が主の栄光のために用いられるよう、今日という日を<神の祝福の源>として生きたいと思います。あの方この方と共に。

第37章1節〜36節(ヨセフの夢・ヨセフ、エジプトに売られる)

2003年6月19日(木)
あなたの人生は、運命にもてあそばれているのではありません。不思議な形で起ってくる<神の摂理>によって守り導かれているのです。本日より読み始めるヨセフ物語は、その事実を繰り返し繰り返し告げています。ヤコブ家には様々な問題がありました。偏愛・嫉妬による憎悪・神の恵みを自慢する愚かさです(3〜5節)。その様な人間の醜悪なものがうごめく中、物語の全体を不思議な<神の摂理>が貫いています。11節、15節、24節、28節を味わいましょう。――今日一日、あなたの歩みの上に、不思議な形で起ってくる<神の摂理>があるはずです。主よ、どうか、あなたの不思議ななさり様を見る<信仰の目>を私たちに与えてください。アーメン。

第38章1節〜30節(ユダとタマル)

2003年6月20日(金)
ユダが神の家族を離れ、自分で家庭を築こうとした物語です(放蕩息子ユダ)。彼の家庭には不幸が連続します。そしてある日、ユダは神とタマルに対して決定的な罪を犯します。その結果生まれてきたのがペレツとゼラです。主イエスは、ユダ・ペレツの末裔としてお生まれになりました(マタイ1:3)。このマタイ1:3に福音があります。主は罪人を救うために来られたのです。

第39章1節〜23節(ヨセフとポティファルの妻)

2003年6月21日(土)
最悪の人生です。ヨセフは今、親兄弟から引き離され、見知らぬ地に連れて来られ、奴隷の身とされます。しかし更に思わぬ事件!ついに彼は投獄の憂き目を見ます。転落する人生、運命にいたずらされ苦しめられる時、人は何によって生きるのでしょうか。――聖書は語ります。「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた」と。「主が共におられ」とは弱々しい慰めではありません。文字通り<天地万物の主>があなたと共におられる、ということです。天も地も、順境も逆境も、あなたの敵さえも、主の御手の中に置かれています。この方を知る時、運命ではなく神の摂理が見えてきます。人生の意味が見えてきます。明日、この方を礼拝するのです。

第40章1節〜23節(夢を解くヨセフ)

2003年6月22日(日)
ヨセフは忘れ去られました。給仕役の長は、助かった自分を喜び、ヨセフの事は忘れてしまったのです。栄枯盛衰の激しい時代にあって<人から忘れ去られる悲惨>と<人の事を忘れてしまう無情>がここにあります。しかしその様な時代に、しかも陰鬱な牢屋の中で、ヨセフ自身は驚くべき姿を取っています。「今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのですか(7節)。」「今日は」と言っていることは、普段から二人の顔色を気にしている、ということです。更に彼は「解き明かしは神がなさることではありませんか 」と言っています。 「人生を導くのは神ではありませんか」と声を掛けているのです。――大変動の現代にあって、あなたの人生を支え導くのは神です。不確かな今の時代にも、主の確かな御支配があります。この主により頼む時、私たちもまた、隣人の顔色を気にかける人間味に生きることができるのです。

第41章1節〜57節(ファラオの夢を解く・ヨセフの支配)

2003年6月23日(月)
「ヨセフは長男をマナセ(忘れさせる)と名付けて言った。『神が、私の苦労と父の家のことをすべて忘れさせて下さった。』」(51節) ヨセフは今、長い苦しみの末に幸せを手にしたと言えます。彼は20代のすべてを牢獄で過ごしました。それが一夜にして、帝国ナンバー2の地位に引き上げられたのです。ヨセフは今、妻が与えられ、長男を腕に抱きつつ、51節の感慨を口にしているのです。――しかし、聖書が告げる救いは、苦しみを忘れ去ることではありません。苦しみを引き起こした人間の罪が、神によって赦され解決されることです。主イエスの十字架の下で。――主なる神はこの後、全地に飢饉を送り、その御業を進められます。ヨセフの下に、苦しみの源、忘れたはずの父の家の者たちがやってくるのです。神の大いなる御手によって導かれながら。

第42章1節〜38節(兄たち、エジプトへ下る)

2003年6月24日(火)
あれから20余年。ヨセフと兄たちは不思議な形で再会を果たします。どちらかが和解を申し出たのではありません。主なる神が飢饉を用いて双方を再会させたのです。心に留めたいのは、この章全体を通して<兄たちの真実>が問われていることです。ヨセフが「お前たちの言うことが本当かどうか試す」「お前たちが本当に<正直な人間>だというのなら」と言っているのがそれです。ヨセフの背後に主なる神が立っておられ、兄たちの真実、真の悔い改めを待っておられるのです。物語では、兄たちの身代わりとしてシメオンが犠牲になります。しかし今や、主イエスが私たちの身代わりとなって下さいました。主の十字架に神の赦しがあります。主なる神は、主の十字架の前で、あなたの誠実な応答を待っておられるのです。

第43章1節〜34節(再びエジプトへ)

2003年6月25日(水)
主なる神の大いなるご計画が、神の民イスラエルに働いています。即ち、20余年の間、神様はヤコブの息子たちを悔い改めへと導いて来られたのです。今彼らは、かつての事を深く悔いており、イスラエルの救いを懇願しています。そしてそのためには、自己を犠牲にする用意があるのです(9節)。――聖書が語る<信仰者の成長>は、悔い改めの歩みの中で、主の恵み深さを味わい知っていく成長です。私たちの信仰生活は、正に、主の恵み深さをいよいよ味わい知っていく生活です。

第44章1節〜第45章28節(銀の杯・ユダの嘆願・ヨセフ、身を明かす)

2003年6月26日(木)
「私をここへ遣わしたのは、あなたがたではなく、神です(45:8)。」これはヨセフの信仰告白です。実にヨセフがエジプトへ来たのは、兄たちの苛めによることでした。ヨセフはそのため、青年時代のほとんどを棒に振った人生でした。ところが今彼は、自分の人生の真実を悟り、神と人との前でその信仰を言い表しているのです。私たちは、自らの人生をヨセフの人生になぞらえます。そして、「私の人生にも、主なる神の摂理があった」と告白することができます。神の大いなる摂理が、人の作為を貫いて働いたのです。「私をここへ遣わしたのは、あなたがたではなく、神です。」「神の恵みによって、私は今日あるを得ているのです(Tコリ15:10)。」アーメン。

第46章1節〜33節(ヤコブのエジプト下り・ゴシェンでの再会)

2003年6月27日(金)
全能の神が共にいて下さるから、私たちは何も恐れる必要はありません。けれども、それを知っていながら、何かにつけ恐れてしまうのが私たちです。ヤコブは「エジプトへ下れ」と神様から言われ、そしてかの地で「ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう」と死を告げられました。ヤコブは恐れたに違いありません。怯えたと思います。その様な彼に神が言われるのです。「私は神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。・・私があなたと共にエジプトへ下る」と

第47章1節〜31節(ファラオとの会見・ヨセフの政策・ヤコブの遺言)

2003年6月28日(土)
信仰者の一生が描き出されています。世にあってその賜物が用いられ、活躍して働くヨセフ。地上の旅路を走り終えようとしているヤコブ。しかし最も注目すべきは30-31節の<二人の厳かな姿>です。ここでヨセフが誓っている誓いは、神ご自身の誓いです(46:4「私があなたを必ず連れ戻す」)。ヨセフの亡骸を神様が連れ戻して下さるのです。生きる時も死ぬ時も、そして死んでいる時も、あなたは主なる神のものです(ハイデルベルク問1)。私たちは明日、私たちの全生涯の主である神を礼拝するのです。

第48章1節〜22節(ヤコブ、ヨセフの子らを祝福する)

2003年6月29日(日)
イスラエルの生涯は<神の祝福を巡る生涯>でした。神の祝福を兄から奪い取るべく虎視眈々と狙い続けた日々。八方塞がりの危機に、神が祝福して下さったベテル! 神の祝福のみによって生き抜いた苦しみの20年(伯父ラバンの下で)。兄エサウとの再会を目前に、神と格闘し祝福を求めた夜のこと。そして何よりも、死んだはずの愛子ヨセフとの再会!――今イスラエルは、それらの事を走馬灯のように思い起こしつつ、孫と息子たちに神の祝福を与えるのです。信仰者の最後の祈りは、自分が受けた神の祝福が、子々孫々にまで受け継がれていくことです。15〜16節を深く味わい、共に祈りましょう。「主よ、あなたの祝福を、あの子にこの子にお与えください」と。

第49章1節〜33節(ヤコブの祝福・ヤコブの死)

2003年6月30日(月)
「王笏はユダから離れず 統治の杖は足の間から離れない。」ヤコブが告げたこの預言は、主イエスにおいて成就されました。今や在天の主キリストは、全宇宙に対する永遠の統治者であられます。しかし、私たちは改めて問う必要があると思います。主の統治の杖が日常生活のただ中にあることを、私は本当に信じているかどうか、と。家庭・学校・職場に、主のご支配があります。暗雲漂う現代社会に、なお貫かれる主のご支配があります。この主のご支配を信じ抜くことは容易なことではありません。否、それは聖霊だけが可能として下さることであり、私たち自身の力によっては不可能事です。神様は<主のご支配を信じる群れとして>教会を立てておられます。聖霊の助けにより、この高貴な務めを果たすことができるよう、祈りを合わせましょう。

第50章1節〜26節(ヤコブの埋葬・赦しの再確認・ヨセフの死)

2003年7月1日(火)
神の<全能の力><計り知れない知恵><限りない恵み>は、神の摂理の中に最も鮮やかに現われます。ヨセフは神の摂理を証しして兄たちに言います。「あなたがたは私に悪を企みましたが、神はそれを善に変え、多くの人々の命を救うために今日のようにして下さったのです。」この一言に、ヨセフの全生涯と創世記の全内容が込められています。神に造られた素晴らしい存在である人間。その人間が、素晴らしい賜物を用いて悪を企てる。しかし、神はそれを善に変え、人間を救う摂理を実行される!これは「神様は何でも最終的には良いようにして下さるんだ」といった安易な信仰ではありません。私たちの悪が極まった<主イエスの十字架>が、私たちの眼前に鮮やかに啓示されているのです。人間の悪の企てに、主は既に勝利しておられます。この主と共に今日一日を過しましょう。摂理の神に、最高級の賛美と栄光とを帰しながら。


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